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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

田所美恵子写真展

お茶の水のギャラリー・バウハウスに『VEDUTA 針穴のヴェネツィア』田所美恵子写真展を見に行ってきました。レンズを使うカメラと違って、ピンホールを通過する光が印画紙に映し出す映像写真です。作家はピンホールに拘って、そこに写し出されるヴェネツィアの風景を印画紙に焼き付けられました。ここにコピーさせて頂いた写真と丸で異なり、それらは詩情に溢れて、暫くヴェネツィアの思い出に陶然となっていました。
ギャラリー・バウハウスVEDUTA
カナレットが描いたヴェネツィアの都市絵図はVeduta(都市景観図)と呼ばれていますが、彼がこの正確なヴェネツィア景観画を描くに当たってこのピンホールを持つ暗箱の装置で、先ず下図を描くのに利用したと言われています。ピンホールを持つカメラ・オブスクーラという写真の原理となったこの現象は、古代ギリシアのアリストテレースの時代から知られていたそうで、カナレットはあの写真のような絵画を描くために、このcamera obscura(羅典語、伊語camera oscura、暗室)を利用したのだそうです。
針穴写真マニュアル
作者は上のようなパンフレットを会場に置いておられるので、このピンホールとカメラ・オブスクーラの原理をこのテキストから知ることが出来ました。作品は鮮明ではありますが、写真機ほどの解像度がない分、全て非常に哀歓のある詩情を湛えています。米国生まれの画家ジェイムズ・アボット・マクニール・ホイッスラーの《光と影》のエッチングを思い出したりしていました。~11月16日まで展示されています。
  1. 2019/10/27(日) 16:32:13|
  2. 展覧会
  3. | コメント:0

イザベッラ・テオトーキ(2)

(続き)
「しかし、1800年代の歴史家達を憤慨させたに違いないし、またその事については概ね何も語られていないが(1900年代の人もまたそうである)、しかし今日では全く無関心に放置されている、その精神的エロチシズムという問題、この問題は別にしても、イザベッラは文化面でその功績大なるものがあったのである。

彼女のサロンはいわゆるヴェネツィア知識人全てに、またヴェネツィアに一時滞在する外国人に開かれていた。彼女の伝記作家がこのサロンに通った人々の名前、スタール夫人からジョージ・バイロン、アントーニオ・カノーヴァからウォルター・スコットのような名前に追加する時、間違いようはなかったし、譬え名前を拵えたとしても騙されるということはなかった。しかし何年もの間、聡明なるイザベッラの元を訪ねようとヴェネツィアの土を踏んだ重要人物はなく、アルブリッツィ家の夏のレモネード、あるいは冬のドーナツ型ciambella菓子(buzzolai)でチョコレートを飲むような栄誉に一度も浴したことのない階層あるいは知性あるヴェネツィア人もいなかった。

この上流であり、国際人であるという階級は、譬え他の階級にとっては到達すべき目的地と考えられ、また野心満々なフォースコロのように才能豊かな青年にとっては、出発点と考えられたに違いなかった。特に民族のお蔭とするならば、それは殆ど家庭の問題であった。というのは、母がギリシア人であり、父がイザベッラのようにコルフ島生まれで、“海の向こうのヴェネツィア人”であったからである。二人は幼い時から知られた存在であったことはあり得たし、フォースコロの父アンドレーアは少々無分別で、女性の魅力には丸で無関心な男であった。

カノーヴァやバイロン卿、スタール夫人、ヴィンチェンツォ・モンティのような多くの優れた人達、サロンに風格を与えた人達の間で、最も頻繁に通った、高名な人と言えば、疑いもなくメルキオッレ・チェザロッティと――いわゆる――イザベッラの心を獲得した中ではフォースコロの最後のライバルとなったイッポーリト・ピンデモンテであった。
イッポーリト・ピンデモンテ[ピンデモンテ像、サイトから借用]  しかし忘れてならないのは、ウーゴがイザベッラより18歳若かったにしても、イッポーリトは8歳年上であり、彼女に平安を、更には青年が与えることのない、また彼女がそれを期待してもいなかった愛情あふれる安泰感を与えることが出来たことである。

その上ピンデモンテは、後に『オデュッセイア』の巧みな翻訳で有名になるのだが、ヴェネツィアでサンタ・マリーナに素晴らしいパラッツォを持っていた。そこでイザベッラのサロンに能く現れ、ヴェローナ近くのアヴェーザのヴィッラがナポレオン軍に略奪破壊された後は、特にそうだった。
チェザロッティ[メルキオッレ・チェザロッティの肖像、サイトから借用]  チェザロッティに関しては、パードヴァ大学のギリシア語とヘブライ語の教師であり、文献学者、評論家、詩人であったが、同時代人や後世の人々にとってよく知られたことは、スコットランド人ジェイムズ・マクファーソンの1763年刊の『オシアンの詩、古代ケルト人の詩歌』の翻訳であった。ジェイムズはそれを古いゲール語の歌の翻訳であると見せかけた(偽書)のだった。チェザロッティの翻訳は成功を収めたが、生存中に4版重版を重ねたのがその証である。

それらの版は次に続くイタリア文学に明白な影響を及ぼし、『オシアン』はアルフィエーリ、モンティ、レオパルディ、そして当然フォースコロにインスピレーションを与えた。

しかし精励すべき研究等の仕事で、パードヴァに引き留められたに違いなく(彼はこの町で1730年生まれたのであり、1808年パードヴァ近くのセルヴァッツァーノのヴィッラで亡くなった)、多分イザベッラのサロンへの訪問はそれほど頻繁ではなかっただろう。何故なら譬えうまくいったとしても、1730年生まれだから、今やかなりのお歳であったし、その当時パードヴァ~ヴェネツィアの旅は、短距離とはいえ、望めば“ブルキエッロ号”があったものの、旅というものは常に旅である。 ……」 (3に続く)
  1. 2019/10/18(金) 22:50:28|
  2. | コメント:0

イザベッラ・テオトーキ(1)

これまで何度か紹介した、ブルーノ・ロザーダ著『ヴェネツィア女 愛とその意義――カテリーナ・コルナーロからペギー・グッゲンハイムまで』(Corbo e Fiore Editori、2005.10)に、Isabella Teotochi(イザベッラ・テオトーキ)という女性が紹介されています。どんな女性でしょうか?
ブルーノ・ロザーダ『ヴェネツィア女――愛とその価値』イザベッラ・テオトーキ[『イザベッラ・テオトーキ像』イタリアのサイトから借用]  「《僕はあなたを心と眼の底に刻印して常にあなたと共にいます。今朝はあなたの事を書き連ねているので、他の日の朝よりずっと快適です。》1795年の春のある日、ウーゴ・フォースコロはイザベッラ・テオトーキに向けてこんな風に書き送った。

イザベッラはイッポーリト・ピンデモンテがいつも彼女をそう呼ぶように、聡明なるイザベッラであり、バイロン卿が彼女を呼ぶようにヴェネツィアのスタール夫人であるが、非常に造詣の深い『ヴェネツィア人の商業史』の著者であり、歴史研究家であり、〝陰気で重苦しい”貴族、カルロ・アントーニオ・マリーンと結婚した。その後1796年3月離婚し、貴族のジュゼッペ・アルブルッツィと再婚した。

しかし彼の両親はその事を知りたがらなかったので、その再婚は秘密の結婚となり、イザベッラは新婚旅行を新夫でない人物と出発した。しかしそれはヴェネツィア軍の司令長官のジョヴァンニ将軍の息子で、古代ローマの歴史家タキトゥスの熱心な読者であったセバスティアーノ・サリンベーニという古い友人であった。二人はフィレンツェに行き、ヴィットーリオ・アルフィエーリと出会い、ローマでは彫刻家カノーヴァ宅に行った。
ウーゴ・フォスコロフォースコロは関係がないのか? フォースコロは高々18歳で、正確にはイザベッラの年齢の半分ほどで、人々は彼に愛の手解きをしたのは彼女ではなかったか、と言っている。多分この貴族の女性のサロンで、家族同然であったに違いないからである。そして少なくともヴェネツィアではその幸運な年月、サロンから寝室までの歩みは簡単だっただろうからである。

ヴェネツィア人はイオニア起源の町を併合していた。彼はザキントス(Zante)島で生まれた(古くはZacintoと呼ばれた)。父はヴェネツィア人、母はギリシア人である。

彼女は、サンミキエーリが素晴らしい城塞を築城したためそう呼ばれるのだが、〝イタリアの番兵(Sentinella)”としての快適な島ケルキラ(Corfù)島に1760年生まれた。少女時代は他の人物、ドメーニコ・ピッツァーノに恋をしたこともある。フォースコロもまた当時殆ど少年に近かった。彼は後に自分の事を話してやりたかった。当時色々な港にいたボナパルトと共に、リード島の港に無理強いをする仏船を沈めてやろうと思っていたのだが。

今や海軍士官だったが、イザベッラは彼が好きだった。しかし〝身体の医師”である父親、貴族のアントーニオは片意地になって敢えて彼女をマリーンに嫁がせた。マリーンもまた海軍にいた。コルフ島で艦隊を指揮していた(ヴェーネト海軍の中では容積トン数の少ない艦隊の司令艦長はsopracomito[ガレー船の艦長]と呼ばれた)。

結婚式は1776年10月10日に行われた(彼女はやっと16歳で、成熟した姿に描かれた肖像画から判断するに、息をのむ美しさだったに違いない。兎に角大変な美しさだった。彼の方は30歳だった)。

数年後、その間に生まれた息子ジャンバティスタを連れて、新夫妻はヴェネツィアに行くべく乗船した。19年後の再婚時の旅行に、その2度目の夫の代わりに付き添った人であったらしいセバスティアーノ・サリンベーニと知り合い(?)になった夫妻であった。何というおかしな人生であったことか。 ……」 (2に続く)
  1. 2019/10/11(金) 02:59:55|
  2. | コメント:0

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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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