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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――アンリ・ド・レニエ(6)

(『水都幻談』続き)
『世界名詩集大成』3巻 フランスⅡ「 館邸
  ――ア・ド・カラマン・シメー公爵夫人に――

そは夜ともならば、蒼白き大理石の低き正面の構えに、窓々の燈火あかあかとともりて、さながら幽霊屋敷なり。昼間は、宏壮にして古き未完成なる屋敷にすぎず、運河ぞいに、獅子頭の刻まれし、そが頑丈なる土台は立つなり。未完成ながら、固く接ぎ合わせし石材を利用し、中断せる普請のうち一階のみを生かせしなり。門よりは、錬鉄の格子戸ごしに、庭の茂みもうかがわれて、高き糸杉の一株、天に聳えたり。

テラスは、そが二段の盛土を水面すれすれにまで広げたれば、われ、そが石階に舟をつくること屢々なり。ここに住まえるはわが親しき婦人たちにして、この古家を人のためにも、己がためにも居心地よき住まいとせし人たちなれど、時にわれ、彼女たちを訪ぬべく格子戸をくぐらで、そこに立ち止まり、欄干に肱つきて、船の往来を眺めんとす。

太鼓腹のオベット船あり、軽快なる伝馬船あり、屋形をつけたる画舫あり。屋形は、長き裳裾に被われ、黒と金もて塗られたり。

このあかぬ眺めに何時までも浸りたけれど、人に見らるるにあらずやと不安なり。思わずふり返る。テラスには人影とてなく、ただかの馴染ふかき二つの像あるのみ。そは古の二人の少年を象どれるもの、服は十八世紀風にして、外套は半ずぼんの上にて開けり。締め金つきの靴をはき、縁の垂れたる帽子をかぶりて、純情可憐、いささか田舎じみたり。双の頬のぷっくりと膨らみたるもあどけなし。めいめいに消壺と提燈を手にす。而して、無言のまま、じっとわが方を見守るは、何ごとかわれに言わんとするものの如し。

さあれ、せんなしや、物言わぬ身の、持物のみにては、何をかわれに語り得ん。提燈が意味するは、日の短く、夜の長くなりしことか。かの火鉢にも似たる消壺のわれに教えんとするは、季節の移り進みて、夏も遠く去り、心地よき秋さえやがて終わらんとすることか。されば、今や赫(かがや)かしき陽光ともお別れなり。

かつては石に、水に、木の葉に、かくもゆたかに降り濺ぎしものを。かかることにあらずや、いたずら小僧共よ、君らの凍えし手と、君らが冬の持物のわれに言わんとするは。冬なりしか! されど、冬近きことは既にわれの知るところにあらずや。冬の気配は、とぼしくなれる光線にも、肌寒くなれる空気にも感じらるるなり。この欄干に絡める藤蔓の残りの枯葉をもぎ取るも冬なり。かの石の籠に盛りたる、彫刻の果実をわれに差し出すも冬にあらずや。風の音にも冬の声す。大潮の満ちて、運河を膨らますも冬なればなり。

かく、ヴェネチアは到るところ、うちふるう光線の中に冬を迎えんとす。然るに、など、かかる提燈や火鉢をわれに示さんとするや、あまりにも性急なる者共よ、君らのおせっかいが今さら何の甲斐あらん。

いな、いな、われ未だこの町を立ち去ることなかるべし。われはこの十一月の寒きヴェネチアをことさらに愛する者なり。濃霧につつまれて牛乳色せる、或いは、氷花に飾られて冷たき音たつる、かの瑠璃細工の如きヴェネチアは格別ならずや。雨とてもわれを追い出すことなかるべし。

入江の水鏡に映える空の色の、澄むとも濁るとも物かわ、庭の木の葉のことごとく飛び去らんとも、そは代赭(たいしゃいろ)色の、緋色の、鮮黄色のヴェールと変じて、秋のかたみの如くに水の面に散りしくにあらずや。

されば騒ぐなかれ、われとても何時かはこの町を去る身なれど、、日暮れて、ヂウデッカ寺のうえに上るかの三日月の、せめて美しき満月となるまで待つとせん。さればその夜の月は、君たちの影法師の、うつぶせに倒れて、君たちの面前にながながと伸びるを、そがヴェネチア風なる銀の面ごしに眺むることならん。 」
  1. 2019/11/30(土) 03:34:48|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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文学に表れたヴェネツィア――アンリ・ド・レニエ(5)

2009.05.23日にアンリ・ド・レニエについて、ブログ水都幻談で触れました。実はこの《ヴェネツィア風物詩》というべき散文詩は、紹介した《序詩》以外は全て古体の雅文で訳されています。森鷗外が訳したアンデルセンの『卽興詩人』の雅文体に最近ハマっている私は是非この眷恋の地をこの文体で紹介したいと思った次第です。
『世界名詩集大成』3巻 フランスⅡ「 奇妙なる庭園
       ――ジェラアル・ドゥヴィルに――

こはただに大理石と水の都のみにはあらざるなり。庭園もまた数多く、緑なす樹木の土壁に囲まれたる、何故か知らねど、他所に求め得ざる、珍奇にして意外なる何ものかを具えたり。壁に護られて中にひそめる庭は、秘やかに閉(しず)もりかえりて、わずかに一樹の梢を、即ち、糸杉の先端を突き出せるに過ぎざるなり。

かかるヴェネチアの庭園を、われ、悉く知るよしもなけれど、名園の幾許かは知れり。ツァッテレ河岸には救済院の庭あり。庭を繞(めぐ)れる長き赤壁には、ところどころ、豊頰の愛神像かざられ、そが一つの如き、冠も髯も藤蔓なるはおかし。また格子造りの門扉ごしに、大運河を望むヴァンドラマン園あり。ヴニエ宮の庭もあり。この庭は、柵をめぐらせし二段の築山によりて、水上にまで伸び、二体の像は田舎者よろしく、また、かずかずの籠には石の果実が刻まれたり。

人目をさけて隠れんとする、さらに陰険なる庭もありぬ。かかる庭を訪ねんには、労をいとわず、辺鄙なる界隈まで足をのばして、この錯綜せる町の迷路の中に探さざるべからず。われはかかる庭園の一つを記憶す。そが名は忘れしも、サン=セバスチアノ寺の方にありき。そこを住まいとせる古き像は大方くずれたれども、英雄や、神々の像なりしならん。われは目を閉ずとも、汝を見る想いす、汝、グラデニゴ宮の小さき廃園よ。さてはまた、汝、カッペッロ宮のなつかしき苑よ……。

或るうららかなる日の夕刻を、われ、かしこにて過ごせしことありき。そは狭く長き庭にして、パラディオ風なる円柱の立ち並ぶ廻廊のあたりにて尽きたり。やせたる花々の花壇をくゆらせ、また、或る花壇には、柘榴の実のまるまると熟れて、えみわれたるありき。われ、幾年月をここに住みなれし心地して、いとも悠々と逍遙せり。

われの最も好むはヴェネチア園ならんも、もとよりそはダリオ宮の庭園を除きてのこと。げにこの庭は、正確なる方形にして、数条の小径にて整然と劃されたり。葡萄棚を支えたるは半身の莢状(さやじょう)せる女人の木造、顔かたち豊満にして歓喜にあふれ、乳房はふくらみ、腹は張り、臍(ほぞ)さえも判然と見ゆ。

彼女等が、葡萄の幹を、葉を、蔓を、房を支えいるさま、いとも誇らしげなり。彼方には、噴泉ありて、大理石の水盤に流れ落つ。そが音は、一滴一滴したたる毎に、いよいよ沈黙は増大し、沈黙を氾濫せしむかと見えたり。

ヴェネチアにはこの他にもなお多くの庭園あり。ヂウデッカ寺の庭の如きは忘れがたく、入江より望まば、そが木立もそが糸杉も見ゆ。われは嘗てそが中にまで足を運びしことありき。いとも広大にして、且つ、閑寂、久しき逍遙に適す。人ここにあらば、潮風を吸い、心に思うことを口にせざるを得ずして、自ずと低吟の意さえ動くほどなるに、これよりわれの語らんとする庭は、人その前に立つ時、そが驚異を心ゆくまで味わんがため、口を噤(つぐ)むを常とす。

ああ、げに奇妙なる庭かな。そが宏大にして微小なる、これにまさる奇異、これにまさる哀調の他にあらんや。そが複雑もまたそが奇異に劣らず。この庭を構成するは、対称的なる花壇なり。花壇を区分する小径なり。花壇を囲む柵なり。花壇を限る廻廊なり。而して、微小なる花々の噴出する無数の小さき瓶なり。この庭は童子の如くにして、永遠にかわることなし。季節の移りかわることもなし。

如何となれば、そは、悉くガラスにて造られしものなれば。芝生も、薔薇も、噴泉も、それぞれを模して、ありとあらゆる色ガラスが用いられしなり。然らば、この庭の滑稽にして愛すべき驚異の中を逍遙すとせば、そはただ目によるほかはなきなり。

往昔、貴族の食卓に飾られいし頃、ヴェネチアの貴婦人らの目は、そが精妙にして脆弱、且つ、突飛なる細工を楽しみしものならんも、この庭の今もなお博物館を訪るる人々を喜ばすこと古(いにしえ)とかわらじ。 」 (6に続く)

この『水都幻談』は、平凡社の文庫ライブラリーで『水都幻談――詩のコレクション』(1994.05刊)として再版されています。
  1. 2019/11/23(土) 17:35:16|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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イザベッラ・テオトーキ(4)

(続き)
「1807年、2、3ヶ月後イザベッラは1冊の本『I Ritratti(あの人達)』を出版した。この本は当時のヴェネツィアの文化面について、生活上の貴重な証言であり、彼女の最も重要な友人達のプロフィールの足跡である。その中には当然フォースコロもいる。今や確固たる詩人であり、長編詩『I Sepolcri(墳墓)』もまた、イザベッラの本と同時にその行く末の光を見るだろう。
ブルーノ・ロザーダ『ヴェネツィア女――愛とその価値』ウーゴに向けた文章の結論は読むに値する。《彼は自分の才能でそれを受け入れることが出来るのだ、ということがないならば、彼には自分を取り巻く存在が馴染み易いものではなかったと思われる。過ち、友人達の心にとってはそれは苦々しかったように、彼の心には同程度に甘美なものであったのだ。》

しかし我々も極ありふれた仕来りに従わざるを得なかったし、若いフォースコロの〝練習船”での役割の中での聡明なイザベッラを見たのだった。それは譬えそうした役柄の中での役割を過小評価するつもりがあってもであるが。あるいは少なくともその疑いを仄めかすつもりがあっても、ということでもある。

多分2人を評価し、2人の友情を認めた人々が沢山いたことは避けられないことであったし、フォースコロは確かに有名で、魅力的な人物であるが、我々は2人の事を思い違いしていた。

先ずウーゴに対する彼女の感情は恋愛感情よりもっと寛容なもので、長続きするものであり、情熱よりもっと長持ちするものであった。別れて以後10年は持続したのであった。1824年12月9日にフォースコロはロンドンに10年間亡命していた。彼に手紙を書いている。《私を愛して、お願い……さようなら、愛しい人、我が最高の天才よ、さようなら》

そしてイザベッラは若さ故の大騒ぎであったが、マリーンと離婚し、アルブリッツィと秘密裡に結婚し、異常で信じがたい事であるが、新婚旅行はサリンベーニを同伴した。性欲異常者でも身持ちが悪い女という訳でもなかったのだが。

当時ヴェネツィアで支配的だった勝手な衣装を着るという、そうした風潮に染まり、それに喜びを見出し、一人だけではなかったが、そうした階層の女であった。そしてとりわけ教養のある、インテリだった。
イザベッラ・テオトーキ掲載した肖像画は際立って心理的な繊細さとドキュメンタリーな価値を結び付ける作品であるが、それ以外にイザベッラは誠実に文化というものを示した著作を発表している。二つの手紙『アルフィエーリのミッラについての書簡』から『ヴィットーリア・コロンナの生涯』まで。更に20年代英語に訳された『アントーニオ・カノーヴァの彫刻と彫塑の作品』、続いて『大理石に彫られたキリスト降架とエーレナの頭』『ジュスティーナ・レニエール・ミキエールの肖像』である。

それ故、イザベッラは自分のサロンに通っていた高名な知識人達を見え透いたスノビズムで手厚く歓待することを抑えていた訳ではなかっただろう(即ち、コップ一杯のチョコレートやレモネードのために彼らも通っていた訳ではないだろう)、しかし彼女は今や存在することを止めてしまった“一つのヴェネツィア”の中で、文化という生活を存在可能な唯一の形態としてヴェネツィアに与えることを知っていた。 」
  1. 2019/11/17(日) 23:05:30|
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イザベッラ・テオトーキ(3)

(続き)
「そしてフォースコロは? 1796年10月からフォースコロは1806年まで“聡明なる”イザベッラに会わなかった。会ったのは長引いたフランス滞在後で、4~6月中旬、2ヶ月ほどヴェネツィアにいた時のことである。会わなかった理由は彼にははっきりしていた。それはイザベッラの予期しなかった新しい結婚である。

新しい結婚が祝われたばかりで、婚姻外の関係は避けたいのは彼女の方だったろう(セバスティアーノ・サリンベーニは別にして)。彼も多分そうであっただろう。失望したのは誰か、苦しみは、苦々しさは! 頭に浮かんだのは何か? 

要するにこのためにあり得たのは、少年達が1796年の7月という月には、酔いを覚ますようにヴィッラ送りになったということである(イタリア維新時の伝記作家達が考え出したように、ヴェネツィア警察の監視下に置いたということではないだろう)。

ところで真実に正鵠を射ておこう。1806年ヴェネツィアの母の元に戻った時は、そこに少しは滞在しなくてはならず、18世紀の伝記作家が書いているように、時々母に手紙を書いて自分の状況を知らせるという、お愛想をする以上に、非常に優しく慇懃であった、とは言えないだろう。

だからフォースコロは1806年の春、プレガンツィオールにバカンスに行った。プレガンツィオールはメーストレとトレヴィーゾやテッラーリョを繋ぐ街道の中間にあり、そこには今でもアルブリッツィ家の人々が美しくはないが豪華なヴィッラを持っていた。そして現在はトレヴィーゾ県に属している。

当然イザベッラは友人達をそこに招いたし、他の季節はヴェネツィアの館でのようにサロンを保持していた。寧ろ彼女の"garçonnière(一人部屋)"(当時は"casino"と呼ばれた)で、チコーニャ通りの奥、フレッツェリーアにあった。

プレガンツィオ―ルでは芳香馥郁たる春には何かロマンチックな出来事が起きたに違いない。我々はその時季の手紙、短い書簡を2通確保している。それはあらゆる書簡の中でもユニークなもので、その中で認められた詩はイザベッラに向けたものでお前と語りかけ、二人の間にはある関係、一つはプライベートというより、より親密なものであり、もう一つは公的なものであることが知れる。

その一つは1806年の4月か5月、学徒達から送付されたもの、もう一つは“月曜日9時”の日付で、光り輝くあの5月のある月曜日、二人(28歳の彼と47歳の彼女)の間に愛が花開いたと考えられる(あるいは若いフォースコロの秘めたる恋は何年もの後、正に初めて開花したのだ。それまで愛の夢は紙上にのみ記されていた?)。

この手紙を見てみよう。最初の手紙には危険と思わせる文章はない。ただ"tu(お前)"だけで、出会う日の指示のみ。《お前に3時頃会いに行く、多分その前に》。しかしランデヴーの作法を考えれば、この"tu"は非常に意味深である。とりわけ中身は恋愛関係が単に明示的である。《冷淡で、お前の事から放心状態だった僕を許して。僕は全てお前のもので、お前が心の中の全てなのに……》。そして暇乞い。《さらば、わが天使。僕を愛して下さい。もし僕がお前を愛しているようにではなくとも、お前を愛しているほどに。Alle due(この意味が判りません―2時に、二人に、我々に……色々考えられます)。僕は健康を取り戻すでしょう――僕の心はこうではないのに》

そして3番目の手紙。ミラーノに出発し、ヴェローナに到着してから書かれた詩。この時は改めて“あなた”を使って(le dà del voi)、テッラッリョにあるプレガンツィオールのヴィッラ・アルブリッツィの庭での散策中のことを語っている。《あなたにお願いがあります。時にはあの道も歩き、前の水曜日のあの時間、我々が辿った木陰を探し、あの場所であなたの友の名を時には呼んで欲しい》。

あの樹が見たのは一体何だったのか? 捥ぎ取られた接吻、約束、愛の表白? 単なる打ち捨てられた時なのか、重要性はないだろう。《もし愛が、未だに優柔不断な子供騙しみたいなものであるなら、才能や美辞麗句の無駄遣いが、最初に座るべき席を押し退け、心からもそれを追い払うのです》。月曜日9時の日付の手紙の中で書かれ、明確には出発の数日前に書かれたのです。そんな可哀想なウーゴなのでした。 ……」 (4に続く)
  1. 2019/11/11(月) 13:51:22|
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サン・ミケーレ島墓地への船の浮橋

イタリアは11月1日は《諸聖人の祝日(I Santi)》、11月2日は《故人の日(I Morti)》で、ヴェネツィア人は日本のお盆のようにこの日々にサン・ミケーレ島墓地にお参りします。本日のGazzettino紙は次のような記事を掲載していました。
サン・ミケーレ島への橋 サン・ミケーレ島への船の浮橋[右、1939年以前の写真から]
「 サン・ミケーレ島への船橋、1950年以来、絶えていた。一つの継承である
 
ヴェネツィア人はサン・ミケーレ島墓地へ、故人の菩提を弔いにヴェネツィア本島から歩いて行けるようにと、11月1日、70年振りにラグーナ上の船橋設置に奮闘した。何千という人達がサン・ミケーレ島への仮設の浮橋を渡った。それは1950年に設けられたのが最後だった。

この事を強く望んだのは市長ルイージ・ブルニャーロで、市のシンボル的な印として、古い伝統の復活を望んだのだった。

船の橋は住民のために設けられ、11月3日まで残ることになるだろう。――そしてカルタ・ヴェネツィア・ウーニカの所持者にも――更に(10日まで)旅行者にも渡橋可能となるだろう。

船の橋は400m以上あり、20ものモジュールから構成されており、マドンナ・デッラ・サルーテ教会やレデントーレ教会の祝日の時の奉納橋(ponti votivi)のために1年を通じて既に利用されているものである。」
[橋のヴェネツィア本島側が高くなっているのは、北回りのヴァポレット等が下を通過出来るように橋桁が高くなっているようです。]

ここに埋葬された人達については、2010.08.14日のサン・ミケーレ島に、また日本人埋葬者については、2008.11.29日の墓参や2010.08.14日の『獨逸日記』その他で触れています。 
  1. 2019/11/02(土) 23:59:45|
  2. ニュース
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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