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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの18世紀(2)

ヴェネツィア共和国が滅亡することになる18世紀のヴェネツィアについて、ヘルマン・シュライバー著『ヴェネチア人――沈みゆく海上都市国家史』(関楠生訳、河出書房新社、1985年8月30日)という本は、次のように書いています。
ヴェネチア人「 ヨーロッパのごろつきの巣窟となった独立国最後の時代
一七〇九年から一七二二年までドージェの職にあったジョヴァンニ・コルナーロは、トルコ軍がわずか数週間のうちに一万六千名を失ったことを知り、新しい世紀が共和国の再興隆まではもたらさずとも、これ以上の衰微を招くこともないだろうという期待を抱くことができた。

偉大な家門と町とは、富裕で賢明であった。市民層――キリスト教徒とユダヤ人――も最近数世紀のあいだにずいぶん金持ちになっていた。そしてヴェネチア自体にもう偉大な将帥がいないとなれば、以前にはスイスの衛兵しかできなかったようなすばらしい軍事訓練をつい先ごろからおこなっている国々から呼んでくればよかった。

こういう期待は多分に真実を含んでおり、共和国最後の十人のドージェは事実、戦争での功績よりは精神、教養、文学での月桂冠によって世の注目を浴びることになる。しかしその他の点では、この共和国最後の世紀は、ヴェネチアといえども自然法則の例外を要求することはできない、ということを示した。

頭をたたき割ってやることのできるトルコ人もいなければ、不穏な貴族の若者がぞんぶんにあばれ回ることのできる戦争もないというので、若者のおちつきなさ、貴族の冒険心は、おだやかな人たちに向けられた。

ヴェネチアは、独立国として存立したこの最後の時代に、山師、盗賊、詐欺師、賭博師ら、ヨーロッパ全土から集まったごろつきの巣窟となった。潟の警察はかつてないほどに監視の目を光らせていたのだが。

そういう悪漢のなかでも最も手に負えない男が、十七世紀のヴェネチアに出現した。レオナルド・ペサロという貴族である。ルクレチア・パリオーニという美しい女のために、彼と仲間のカミッロ・トレヴィザンが殺人事件を起こし、ついにペサロはムラーノとメストレ、ヴェネチアとノアレに分散している一味徒党の指揮をするようになった。

金が必要になれば、カリマンのような金持ちのユダヤ人を襲うか、貴族の社交の場に押しかけて、悪口雑言をならべながら婦人たちの首や腕から宝石をもぎとるかした。女が必要になれば、祝祭の場やゴンドラから白昼に誘拐してきて、何か月も手もとに置き、一味の全部がたっぷりなぐさんだ。そういう女性はかわいそうに、その後はどこかのホームにはいって植物のように生きるほかはなかった。

モロシーニ家の男までが、法律の保護を停止されたこの二人の仲間に加わったとき、共和国は真剣になって、三人の相続財産を没収し、彼らを追放すると同時にその首に多額の賞金をかけた。これは、富裕で有名なこういう家門の子弟に対しては、たしかになかなかなしがたい決定である。

ブレーシアに近いヴェネチア領に領地を持つアレマンノ・ガンバーラ伯も、一七六〇年に同じような目に会った。彼は辻強盗一味の首魁になって、古い家名にあまりふさわしくない行動をしたのである。彼も国外追放になったが、こういう処置を見ると、総理府(シニョリーア)は、まだ権力の残されていた最後の世紀になって、高い身分の犯罪者を処刑するのにある種のためらいを感じたかのようである。

これはいささかふしぎである。というのは、これもヴェネチアの人ジャコモ・カザノヴァの口から、ドージェ官邸の地下室で音もなく次々に犯罪者を処刑した鉄の首輪(ガロット)、あのたくみに考案された造り付けの絞首刑道具の話を聞かされるのも、この世紀のことだからである。」
  1. 2020/01/20(月) 00:00:07|
  2. ヴェネツィアの歴史
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ヴェネツィアの18世紀(1)

私がイタリアの中でも特にヴェネツィアに興味を覚えてヴェネツィアに行ったのは、ヴェネツィアの18世紀を面白いと感じてのことでした。それ故初めてのヴェネツィア行の時、レッツォーニコ館の18世紀博物館(Museo del Settecento veneziano)と演劇博物館(Casa di Carlo Goldoni)になっているゴルドーニの生家は見逃す訳にはいきませんでした。

例えば永井三明著『ヴェネツィアの歴史――共和国の残照』(刀水書房、2004年5月26日)は、次のように18世紀の色々な側面を細かく分析して、18世紀ヴェネツィアの有様を教えてくれます。
ヴェネツィアの歴史「……
ヴェネツィアが最高の観光都市であるという定評を確立したのは、十八世紀のヨーロッパ諸国で流行したグランド・ツアーと呼ばれるものによってであった。それは主としてイギリス、フランス、ドイツの知識階級や上流階級の子弟が見聞を広めるために長期にわたって各地を旅行することであった。

ゲーテ、モンテスキューをはじめ数多くのイギリス人やフランス人、ドイツ人による情報は各国の君侯をはじめとして多くの人びとを旅にいざなっただけでなく、ヴェネツィア共和国の政治制度への興味や、その社会のしくみについての興味をかき立てた。

少なからぬグランド・ツアーの滞在者がヴェネツィアの不潔さや悪臭、社会生活での堕落や放埓、悪名高い十人会の抑圧に不満をもらそうとも(モンテスキューはそれを感じた)、悦楽のうちに暮す人びとの屈託のない生活、政府による下層民に対する行き届いた社会生活を認めた。

ましてや、公式に歓迎された君侯がどれほど満足してこの地を去ったかは想像にかたくない。楽しい世紀のヴェネツィアのエレガンスは、北方の君侯の重苦しい宮廷生活の心をときほぐし、着飾った貴婦人による優雅な応対は彼らに再度の来訪を希望させたに違いなかった。

では十九世紀を待たずに崩壊し去ったヴェネツィア共和国が、その終焉の瞬間までどうしてその魅力を全ヨーロッパに向けて発散させることが可能であったのか。国家の滅亡にはほとんどといってよいほど、放火、略奪、暴行、殺戮のイメージが伴う。ヴェネツィア共和国の衰退は十六世紀以降十八世紀にいたる長くて緩やかな下降現象だった。その終焉にあたっても治安はほぼ保たれたが、この事実は稀有な現象といいうるであろう。

外国人をひきつけてやまなかった十八世紀ヴェネツィアの魅力は、上述してきたような貴族の贅沢な生活や、彼らに将来の展望がきかぬことに由来する目先だけの享楽生活だけであろうか。外国人の目にうつったのは市民生活の平穏無事の姿である。民衆暴動はこの都市には伝統的に無縁だった。

イタリアのどの都市にも絶対見ることのできなかった市民生活の安定は無限の重みをもつものである。しかし一般住民には貴族のように快楽で身を焼きつくすには富がなかった。かえってそのことが生活における健全さと程の良さをもたらした。これがヴェネツィア共和国長命の核心である。」 ……

「……ヴェネツィアの治安がなみはずれて良かったのは、決して当局の厳しい取締りによるのではなかった。むしろその理由は民衆の中にあったのである。穏健な当局のあつかいにこたえる健康な良識があったからであろう。本土のどの都市よりも生活水準が高く仕事も豊富にあった。

警官はどちらかといえば、親切で陽気でうちとけた態度だった。闇夜での殺人は、イタリアのどの地方でも日常茶飯事だった。ここヴェネツィアではまれにしか起こらなかった。警官は警棒を使用はしたが、近代的な意味での官憲の暴行は絶えてなかった。感情におもむくまま民衆を残酷に扱うことはなかった。

殺人件数は意外に少なく年間二〇件をこえなかった。それはフランス人シャルル・ドゥ・ブローが証言している。事実、ドゥ・ブローは一七三九年三月より一七四〇年一月まで滞在していて、喧嘩沙汰に対する罰までは数えていないが、重大な暴力と殺人に対する一七件の判決が下されたことを述べている。

一七三二年、故郷ヴェネツィアに帰国した劇作家カルロ・ゴルドーニは街灯が楽しげで役に立つ発明であるのに気がついた。また一七六三年、フランス人聖職者は、夜間の照明は十分にほどこされていると証言している。「それはイタリア中どこにでもあることではない」と。

一方、自分が経営する薬局の奥から世間を眺めて、その見聞のすべてを記録した年代記作者アントニオ・ベニーニャはカーニヴァルの期間中に、ふだん以上に盗みと殺人が多発したために、十人会が各地区の長に対して夜間に武装したスタッフで街路のパトロールを命じたと述べてはいるが。

しかし同時期のイタリアの他都市の情況を忘れてはならない。例えば、教皇クレメンス一三世の下での教会領の殺人が一一年間に一万二〇〇〇件にも上った(年平均一〇九〇件あまり)ことを知れば、ヴェネツィアの治安がずばぬけて良好であったことを認めぬわけにはいかない。 ……」

そんなヴェネツィアの中にもマニーン広場とサンタンゾロ広場を結ぶコルテジーア通り、マンドラ通り、スペツィエール通りから、左へ入るアッサッスィーニ埋立通りというのがあり、その通り入口に古本屋さんがあって、私は何度かここで古本を購入したことがあります。一度など2冊買ったら1冊はサービスするよと、ディスコントしてくれました。このアッサッスィーニ埋立通りのアッサッスィーニ(Assassini)とは暗殺者達のことです。この物騒な名前は、この通りでかつて人が暗殺されたことの記念ということでしょうか。

2000年の大聖年以前、初めてヴェネツィアに辿り着いた時、土地の人に言われました。《夜遅くまで外で遊んでいても、本土の他所の町と違ってここは安全だからね》と。イタリア旅行記で怖い思い、不安感を感じさせられた人の話等を読んで、それなりに構えていた私も、ヴェネツィアに着いてその言葉を聞いてホッとしたものでした。
  1. 2020/01/05(日) 10:00:18|
  2. ヴェネツィアの歴史
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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