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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

新型武漢(コロナ)ウイルス

イタリアでは、コロナウイルス感染者が9100人を、死者も460人を超えました。落ち着くまでこのヴェネツィア・ブログを休みに致します。翌日(11日)には1万人を超す状況です。
  1. 2020/03/10(火) 15:15:36|
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ヴェネツィアの18世紀(3)――(その5)

(続き)
「かつらは初めて現われたとき十人委員会(コンシーリオ・デイ・ディエチ)によって厳禁されたにもかかわらず、一八世紀後半にはほとんどあらゆる人びとが利用していた。そして一七五七年にアントーニオ・コッレールが《八四歳で自分自身の髪のまま》死去したとき、彼は《かつらを用いない最後の貴族(パトリツィオ)》であったと評された。……」
ヴェネツィア上ヴェネツィア下「かつらが礼式上(ド・リゲール)必要であるならば、地位のある貴族(パトリツィオ)たちは黒の官服を着ただけで戸外を歩くことはもはやできないと感じた。この官服はゆるやかな、ひだの入った、幅広の袖の礼服であり、ひざまづいた嘆願者がいまなおこの袖口に接吻したのである。……」

「女性も髪粉を振ったかつらをつけたが、普通戸外ではかつらはティエーポロの絵に描かれているような、リボンの飾りのある大きな帽子で覆われてしまい、帽子は果実や木の葉、蝶、さらには剝製の鳥で飾られた。……」

「このようにごたごたと大きく結い上げた髪からときどき小さな虫が出てくるのが見られた。大きな髪の下では、貴婦人の化粧もたいへんなものであり、頬と頬に、さらには鼻と唇にまでつけぼくろをつけた。そしてつけぼくろをつける位置によって独自の意味と名称があった。……」

「貴婦人の多くが、奢侈禁止法を厳守して、つねに黒字の服を着たことは確かである。ヴェネツィア婦人は、ヨーロッパの他の首都に住む女性ほどパリの流行をありがたがらないという、フランス人ダ・ラ・ランドの意見に同意する観察者はいくらかいた。しかし彼と同時代の人びとのなかには、ヴェネツィア人はこの法律を愚弄できる場合にはいつでもそうする気持ちがあるのだという見解を述べている者が数人いる。……」

「社交場のなかには会員制クラブの方式で経営されているものもあり、普通、社会的背景と趣味を同じくする人びとが会費を払って会員となった。このような社交場の一つは三〇〇名以上の会員を擁していた。一八世紀末には、全部で一四〇の社交場が国家審問委員会(インクイジトーレ・ディ・スタート)に知られており、委員会はその数を制限し、庶民が入会しないよう全力をつくして説得した。……」
『ロザルバ・カッリエーラ自画像』[ロザルバ・カッリエーラ自画像]  「肖像画家・細密画家のロザルバ・カッリエーラのような才能に恵まれたヴェネツィア婦人は少なかった。この画家は活動期のほとんどをヴェネツィアで過ごし、ホラス・ウォルポールからマンチェスター伯にいたる外国人訪問者たちの肖像画を描いた。ルイーザ・ベルガッリのように、(夫のマントとかつらで体をあたためて)マダム・デュ・ボカージュの『アマゾーン族』の翻訳に着手する覚悟のある婦人は少なかっただろう。……」
[ロザルバ・カッリエーラについては、2013.06.08日のロザルバ・カッリエーラで触れました。]
グァルディの絵画?[ピエートロ・ロンギ画『奥方が目覚めるとチチズベーオが‥』、イタリアのサイトから借用]  「愛人の伊達男(カヴァリエーリ・セルヴェンティ)を従えた貴婦人たちがいる。彼女たちは彫像のようにこちこちになって座り、賛美の言葉をかけられるのを待っている。愛人が肩ごしに溜め息をついて足元にひざまずく。別の男がお茶を渡し、ハンカチを拾い上げたり、手に接吻したり、腕を貸そうとしたり、秘書、従僕、調髪師、芸人の役を演じたり、あるいは彼女をちやほやしたり、犬のようにあちこちあとについてまわる。」
[チチズベーオ(cicisbeo=cavaliere servente)については、2018.10.04日のチチズベーオ》(1)と2018.10.11日のチチズベーオ》(2)で触れました。]
ヴェローニカ・フランコの肖像[コッレール美術館のヴェローニカ・フランコの肖像]  「もっとも羽振りがいい高級娼婦は上流階級の婦人と同じほどぜいたくに凝った衣装を身にまとっていた。こうした娼婦があふれるほどいる通りがある、とサー・トマス・ニュージェントは読者に教えている。彼女たちは来る者はだれでも皆迎え入れ、《きわめてはでな色の服装で、乳房をあらわにして、顔は紅を塗りたて、入口や窓際に一〇人あまりかたまって立ち、客を誘っていた》。」
[高級娼婦だったヴェローニカ・カッリエーラについては、2010.09.18日にヴェローニカ・カッリエーラ》(1~4)で触れました。]  

「カザノーヴァは生まれ故郷ヴェネツィアの修道女についてほぼ同じことを書いている。彼は彼女たちが愛人として魅力的であろうと考えた。彼が出会ったひとりはほれぼれするほど肉感的な女であったが、彼女は男性の肉体と同時に女性の肉体をも楽しみ、彼がそれまでに知っているどの女性よりも大きな興奮を与えてくれた。……」

「しかし、真の召命を受けた献身的な多くの修道女たちがいたことは疑うことのできない事実であり、このことはもっとも高額の持参金を持たせる余裕のある貴族(パトリツィオ)の娘たちがもっぱら修道女として入ったデッレ・ヴェルジニ修道院のような貴族的な女子修道院についても言えることであるとしても、また一八世紀末ころには女子修道院における規律がめだって厳格になっていたことも事実であるとしても、ヴェネツィアでは宗教や聖職者というものがあまり謹厳なものとは受け取られなかったのである。しかしヴェネツィアがどこから見ても信仰心のあつい都市であることに変わりはなかった。……」 (引用終り) 

追記: イタリアのコロナウイルス感染者は増え続けています。一つにはドゥエ・バーチの挨拶習慣も影響しているでしょう。ヴェーネト州では2月29日(土)から69名増えて、3月1日(日)には265名が陽性で、その内入院患者は64名と。因みにヴェネツィアは19名が陽性だそうで、カーニヴァルを日曜日で途中中止したのですが、あの混雑の中では感染の可能性は大きかったと思われます。

ヴェネツィア共和国は黒死病が入国することを恐れて、アドリア海から入港する船を港外に40日間(quarantena)留め置き、ペスト感染を防ごうとしていました。この quarantena という言葉が各国に伝わり、検疫という言葉が出来ました。今回のカーニヴァルではヴェネツィアはこの故事を思い出したことでしょう。1630年のペスト猖獗は菌が陸地から来た人経路だったそうです。
  1. 2020/03/01(日) 22:43:04|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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