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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

伊語版Wikipedia“Peste nera(黒死病)”――4

(続き)
「 疫病猖獗前夜のヨーロッパ

10世紀~14世紀初頭の間、ヨーロッパでは人口増加は緩慢であったが、恒常的にあった。フランスとイタリアでは倍増したが、ドイツでは3倍増となった。この事は政治構造の安定剤として機能し、更なる安定性、そして中世の暑かった期間として知られる、温和な季節に移行した。

経済は栄えた。即ち、数世紀後には情報活動は効率的に維持され、商業交易は活発になり、黒海やビザンティン帝国にまで及んだ。14世紀初期、ヨーロッパの多くの都市には1万人以上の住民が住み、ある都市では、10倍を数える所まで現れた。イタリアではミラーノは約15万人、ヴェネツィア、フィレンツェでは10万人、ジェーノヴァは6万人。一方ヴェローナ、ブレッシャ、ボローニャ、ピーザ、スィエーナ、パレルモは多くても約4万人という数であった。

当時の食生活の基本としての食べ物である穀類の調達といういつもの大目的に向かって、耕作地の拡大や3年サイクルの輪作、新しい農具といった農業技術の改良があった。しかし1300年代初期の数10年間、“小さな氷河期”とその後歴史に残ったように、一般的な気温の低下のために農業生産は需要に応えられなかった。

1315~1317年にヨーロッパは、何年もの間発生したこともなかったような大飢饉に襲われた。特に北ヨーロッパの幾つかの都市では続く年月、別の飢饉が発生し、1338年と1343年の飢饉はヨーロッパ南部の国々の大いなる関心を呼び、記憶されている。

1325~1340年の間、夏は非常に低温多湿で多雨が襲来して収穫物を駄目にし、現在でも存在しているが湿地を拡大した。既に1339年と1340年、疫病の流行があり、多くの場合、腸感染症と仮定されている。これによってイタリアの都市は、死亡率の決定的な増加を見た。

更に状況を悪化させたのは、1337年、フランス王国とイングランド王国間に1世紀以上続く紛争が勃発したことであった。戦争に怯え、自分達の畑の些少の収穫物では生存し続けることが出来ない農民達は、日々の糧を求めて都市に向かった。道に捨てられ腐敗するゴミの山、下水溝とて無く、窓やベランダから直接道に捨てられる生ゴミと一緒に、相当ひどい衛生状態の中で、人口過密な居住区を形成していた。

これが、ペストが地中海の港に到達した1347年10月、パンデミックを爆発させるには理想的な状況、ヨーロッパの疫病猖獗前夜の姿である。 」 (5に続く)
  1. 2020/04/27(月) 23:50:00|
  2. 疫病
  3. | コメント:0

伊語版Wikipedia“Peste nera(黒死病)”――3

(続き)
「用語“ペスト”(羅典語pestis、“破壊”“破滅”“伝染病”の意)は中世において高い死亡率と猖獗を特徴とする種々の病気、コレラ、麻疹、天然痘等を意味した。黒いペストという表現は1300年代その病気が人間に引き起こす症状を観察し、とりわけ患者の皮膚や粘膜に現れる出血性の、はっきりした土色の斑点が生じるという症状の観察から生まれた。

同時代の人々は、こうした伝染病(パンデミック――伊語pandemia)を羅典語で、febris pestilentialis、infirmitas pestifera、morbus pestiferus、morbus pestilentialis、mortalistas pestis、或いは簡単に pestilentia と呼称していた。この病気を同時代の著者は、“大ペスト(grande peste)”とか“大疫病(grande pestilenza)”の呼称もした。

1300年代半ばの疫病蔓延は“黒死病”(Morta nera――羅典語mors nigra)という形容語でも有名である。この言葉は1350年に初めてベルギー人スィモン・ド・クーヴァン(Simon de Couvin[Covino]によって使われたが、彼は『De judicio/iudicio Solis in convivio/conviviis Saturni』の詩の著者で、この詩作品の中で黒死病は土星と木星が天文学でいう“合”の状態に入ったためではないかと仮説を立てている。即ち――
≪Cum rex finisset oracula judiciorum       (王が審判の託宣に終止符を打った時
Mors nigra surrexit, et gentes reddidit illi.≫   黒死病が生まれ、国はそれに屈した。)
Johannes Isacius Pontanus[ヨハンネス・イサキウス・ポンタヌス像、Wikipediaから借用] 14世紀の伝染病は、1631年に出版された、フラマンの歴史家のヨハンネス・イサキウス・ポンタヌス(Johannes Isacius Pontanus)の『Rerum Danicarum Historia』の中でも“黒死病”と呼ばれ、この場合でも表現は羅典語で atra mors となった。即ち――
≪Vulgo & ab effectu atram mortem vocitabant.≫  (通常、その症状故に黒死病と定義された。)

事実、フランスの医者ジル・ド・コルベイユ(Gilles de Corbeil)は12世紀に、論文『De signis et sinthomatibus egritudinum』の中で、atra mors という用語をペスト熱(febris pestilentialis)に言及するために使用した。“黒死病”(アイスランド語 Svarti Dauði、オランダ語 den sorte Dod)という表現はスカンディナヴィア地方、その後ドイツで広まった。ドイツでは次第に14世紀の病気と統合されていった。

この用語は英語では1775年初めて使用された。その表現は1832年にドイツの医者ユストゥース・ヘッカー(Justus Hecker)によって再び取り上げられた。1347~1353年のペストについての彼の記事は、1826~1837年ヨーロッパで猖獗を極めたコレラの大流行時代に出版もされ、“黒死病”と題されて、大反響があった。記事は1833年英訳され、重版を重ねた。 」 (4に続く)
  1. 2020/04/23(木) 10:39:18|
  2. 疫病
  3. | コメント:0

伊語版Wikipedia“Peste nera(黒死病)”―2

(続き)
「 黒死病前史と流行病に対する社会的自覚

14世紀の人々は予防法とか治療法といった考えを所持していなかったが、疫病の流行といった概念については能く知っていた。即ち、過去のペストの大流行は、旧約聖書申命記32章23~24節で、《我禍災(わざはひ)をかれらの上に積かさね、吾が矢をかれらにむかひて射つくさん。かれらは餓えて痩おとろ熱の病患(わづらひ)と悪き疫(えやみ)とによりて滅びん……》と書かれ、既に知っていた。
トゥーキュディデース[トゥーキュディデース像、ウィキペディアから借用] 歴史家トゥーキュディデースは彼の『ペロポネーソス半島戦史』の中で、対スパルタ戦の年月の間(Bc431~404)、アテネを襲ったペストについて記述しているが、そのペストがアテネの敗北の原因となったと推測している。トゥーキュディデース以外にも、多くの古代の作家達が疫病の流行について記述している。ガレノス(Galeno)、コス島のヒッポクラテス(Ippocrate di Coo)、プラトーン(Platone)、アリストテレース(Aristotele)、エフェソスのルフォス(Rufo di Efeso―医師)等。

ヒッポクラテスやガレノスのような医師は、その原因が四体液説により人体のバランスを崩す大気中の毒である、空気の瘴気の中にあると言っている。しかし誰も疫学というものの概念がない上に、人間間での感染性については認識していなかった。

歴史家カエサレアのプロコピウスが詳細に記述したように、紀元541年コンスタンティノープルは所謂“ユスティニアヌスのペスト”(ユスティニアヌス1世在位527~565)に襲われ、ビザンティンの首都で人口の約40%が死滅した後、疫病は約750年頃まで全地中海地域に波状攻撃を繰り返し、5000万~1億人の死者を生じさせた。故に史上初の“パンデミック”と考えられるに至った。

590年ペストが初めてローマにやって来た時、伝説は大天使ミカエルが顕れて、大聖グレゴリウス(グレゴリウス1世)の願った贖罪の行列のお陰で、ペストの侵入が止まったと言っている。

イスラム世界も流行病から免れてはいない。ヒジュラ(遷都―Egira)以来、5回のペストが知られている。“シーラワイフ(Shirawayh)
のペスト”(627~628)、“アムワス(Amwas)のペスト”(638~639)、“大(violenta)ペスト”(688~689)、“処女の如き(delle vergini)ペスト”(706)、“特筆すべき(notabili)ペスト”(716~717)である。

14世紀の人々は天然痘や麻疹のような感染症が存在することを認識していた。しかしこういう状況を生き延びた人々は人生の残りの間、免疫された状態だったので、感染症というものから子供達は例外的に免れているのだと考えていた。その上、人間間の感染の可能性の認識はなかったので、伝染病というものは個人にのみ関与するものであるとし、その病気が伝染するものであるということは何も知らなかったのである。……」 (3に続く)
リアルト橋rialto tricolore[左、ロックダウン下のリアルト橋、右、トリコローレのリアルト橋(サイトから借用)――昨日の新聞によりますと、ヴェーネト州のルーカ・ザーイア知事は5月4日には商店等の再開をしたい旨を表明されています。それに呼応したように、ヴェネツィア・リアルト橋にイタリアの三色旗の色が照射されました。イタリアに漸く春本来の陽光が差し始めたかのようです。またWikipediaに《感染症の歴史》という項目があります。大変参考になります。]
  1. 2020/04/18(土) 00:02:01|
  2. 疫病
  3. | コメント:0

伊語版Wikipedia“Peste nera/morte nera(黒死病)”―1

以前黒死病防止のためにヴェネツィアでは、 quarantena(船を40日間、沖合停泊させた)が一時的隔離の検疫の意になったことを書きましたが、仏語では quarantaine、英語 quarantine、独語 quarantäne と各国の言葉に取り入れられています。

ヴェネツィア・ニュースを読んでいると、漸く暗いトンネルの先に明かりが見え始めたらしく、感染者と死者の数が減り始め、回復者の数が増え始めたらしい様子を報道しています。一方、日本はこれから本格的な蔓延が始まるのでしょうか。武漢発のコロナウイルスに負けないために“単に”家に籠っているのではなく、アクティヴに蟄居するため、ウィキペディアの伊語版"Peste nera"を訳してみることにしました(自動翻訳がありますが)。

20世紀前半に猛威を振るったスペイン風邪については、日本語でそのデータが読めるそうです。次のサイト《Current Awareness Portal》=https://current.ndl.go.jp/node/40672 で、『流行性感冒「スペイン風邪」大再流行の記録』から平凡社のサイトの中をクリックすれば、4月30日まで無料で読めるようです。
[因に非常に大まかな数字ですが、世界の人口20億として、スペイン風邪にその4分の1が罹患し、1700~5000万人が死んだのではないか? とされているそうで、日本では人口5500万人の内、2380万人が感染し、39万人が死亡したそうです。]


「 ペスト(黒死病――Peste nera)
黒死病医師[黒死病に対する医師は、このような仮面を被って患者に接したそうです(17世紀)。仮面の鼻の先に色々の香辛料を詰め込んだのだとか。ウィキペディアから借用]  黒死病は世界的に拡がった、殆どペストと言っていい流行病であった。14世紀の30年代、中央アジア北部で発生したと見られ、1346年からヨーロッパに拡がった。

モンゴル高原から次第に拡がっていったのだが、最初支那やシリア、更にトルコのアジア側からヨーロッパ側に海峡を渡り、ギリシア、エジプト、バルカン半島へと到達した。1347年にはスィチーリアへ、そこからジェーノヴァへ渡った。1348年にはスイス最大のカントン、グラウビュンデンを除くスイスを汚染し、ミラーノ公国領域のある地方を除いてイタリア全土に拡がった。

スイスからフランス、スペインに拡がり、1349年イギリス、スコットランド、アイルランドに至った。1353年全ヨーロッパを汚染した後、疫病の汚染源が消滅した。

現代の研究によれば、黒死病は少なくともヨーロッパ大陸の3分の1の人口を消滅させたのだが、それは2千万人の犠牲者ということだろう。研究者の殆ど全員が1894年に黒死病菌を分離させることが出来た細菌 Yersinia pestis による感染症であり、鼠の蚤を媒介して人に感染する、と認めている。

適切な処置は講じられず、14世紀にはまだ処置法が判っていなかったので、現れた症状に従って、感染者の2分の1から殆ど全員に及ぶ人が致命的な結果となった。即ち、ペスト腺腫であり、敗血症であり、肺炎症状である。

人口統計学上の壊滅的な結果以上に、黒死病は当時の社会に激しい衝撃を与えた。説明と解決策を求める人々は、時にユダヤ人に感染の責任を押し付けて迫害と殺戮を行い、また多くの人々は疫病蔓延は神の思召しであるとし、その結果種々の宗教活動が発生した。中でも有名なものは鞭打ち苦行派のものである。

文化面でも影響著しいものがあり、ジョヴァンニ・ボッカッチョは『デカメロン』の中で、黒死病に侵された町から逃げ出した若いフィレンツェ人を話者として登場させたし、絵画では“死の舞踏”の主題は、続く世紀の中で芸術的表現として繰り返されるテーマだった。

疫病の大猖獗が終息しても、黒死病はヨーロッパの人々を続く何世紀にも亘って、その強度は減じたにも拘わらず同じような調子で鞭打ち続けた。……」 (2に続く)
  1. 2020/04/14(火) 07:57:37|
  2. 疫病
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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