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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

伊語版Wikipedia“Peste nera(黒死病)”――8

(続き)
「  長期的に見た成り行き

黒死病は中世ヨーロッパ社会に激しい変化を及ぼした。それ故1348年以降、13世紀の文化的規範を維持し続けることは不可能になった。人命の著しい損失が、長期に亘って人間社会を確実な効果で再構築するよう促したのである。人口統計上の下落で、農地や利益を生む仕事が人口の僅か1%に役立つ事態となった。収益を生まない土地は見捨てられた。ある地域では村ごと捨てられてしまった。

ギルドは最初は入会を拒否していたのだが、必要に迫られ、新会員を認めた。農地の地代は崩壊し、都市の賃金は明白に上昇した。このためペスト後、多くの人々は二度と得られないと思われた、生き延びれた幸せ感に浸ることが出来た。

人力による手間賃の増加により、労働の機械化が大いに必要とされ、中世後期は著しい技術革新の時代となった。商業が再び繁栄したことは、金融システムと会計術の発展をもたらした。為替手形と複式簿記が導入され、信用制度は急速な推進力で進んだ。

革新について、歴史家デイヴィッド・ハーリヒイ(David Herlihy)は印刷術の例を挙げている。即ち、写字生の俸給が低かった時、筆耕は著書の再生産の一つの満足策であった。手間賃の増加はヨーハン・グーテンベルクの金属の可動活字による印刷術の発明を引き起こしたような一連の実験に道を拓いた。更にハーリヒイは述べている、火器技術の革命は兵士の激減によるものではなかったか、と。

1347~1353年のパンデミックの結果、当局はペストの予防・治療の試みに適した法令・法規を拡大展開し始め、続く4世紀の間もそれを続けたが、それにも拘わらず疫病は周期的に出現し続けた。新しく流行病蔓延の兆候が見えるたびに、健康状態を証明する検疫所を設置し、町の衛生状態を改善し、物品や人の流れを制限する、そういう習慣だった。

“瘴気”理論を基に、悪臭を発する活動を阻止し、娼婦や浮浪者、他に罪人のような“倫理的に汚染された人々”と考えられるような一群の人々は遠ざけられた。

続いて臨時の衛生委員会と検疫官を設ける処置が講じられた。例えばミラーノでは1450年、常設の保健所が設立され、1488年のプロジェクトによる聖グレゴリウス伝染病院(lazzaretto)が建てられた。1486年にはヴェネツィアも同じようにしたし、フィレンツェでは1527年まで待たねばならなかった。
[lazzaretto(伝染病院、隔離病院)という言葉は、聖書に登場する救癩聖者ラザロ(Lazzaro)の"L"がヴェネツィアで出来た教会付属の病院 Santa Maria di Nazareth(Lazzaretto Vecchio島にあった)のNazarethの"N"とすり替わって出来た言葉だと伊和辞典にあります(Nazzaretと書いてありますが)。ヴェネツィアではこのNazareth(ナザレット)病院に隔離してペストの治療等が行われたそうです。]

こうした病院はパリでは1580年に出来たが、既に約30年も前から流行病蔓延に向き合うための法令や規則の公布に当たって問題を抱えていた。16世紀末頃アムステルダムでは、疫病蔓延の汚染源から防御しようと衛生状態を改善する目的で、道路からゴミを排除する公共機関を設置し、伝染病院を設立し、公衆衛生に携わる役人の中に専門医を置くことを決定した。ロンドンでは長い間、伝染病院に閉じ込めるより、自宅隔離が好まれた。

長い期間の後、ペストの薬として古代ギリシアのガレノス流の本草薬物の伝統から漸く自由になれた。シクストゥス(Sisto)4世とクレメンスClemente)7世の教皇大勅書は、この病によると死因が判明しても、遺体を区別葬してよしとしていた。

フランドルの医師アンドレアス・ヴェサリウス(Andrea Vesalio―1514~1564―パードヴァ大学教授)は、人体の死体解剖研究を系統立てて開始した最初の中の一人だった。分析的な研究法により人体に直に施した解剖は、ペスト後の社会に非常に大きな衝撃を与えた。現代医学、経験論的科学へ向いた第一歩だった。しかしながら、ヴェローナの医師ジローラモ・フラカストーロ(1483~1533)がよりシステマティックな手法で感染という考え方に向き合う前、ほぼ200年という年月を経なければならなかった。

何人かの文化史家によれば、その中には特にオーストリアのエゴン・フリーデル(Egon Friedell)もいるのだが、黒死病は人間と宇宙の中世的観念の危機を招き、あの世においてまで優位に立っていた確たる信仰心を動揺させ、黒死病の終末とルネサンス(復活)の間の偶発的・直接的関係の中で自らの姿をそこに見たのである、と。 ……」 (9に続く)

ヴェネツィアは現在ファーゼ・ドゥーエ(fase 2)下にあり、5月18日から全てが再開出来るのではないかという状況のようです。5月10日に撮影された街の動画がYoutubeにアップされていました。次のサイト静かなヴェネツィアMa non troppoです。私の大好きなカンポ、サント・ステーファノ広場から始まります。初めてアパートを借りたのはこの広場の裏で、毎日広場の“アンゴロ”でスプリッツ・コン・ビッテル(sprits con bitter)を飲んだものでした。

追記: 2008.07.20日のブログヴェネツィア映画で、ジローラモ・フラカストーロについて触れたことがありますが、上記のヴェローナの医師ジローラモ・フラカストーロとは、イタリア・ウィキペディアによれば、

「Girolamo Fracastoro【1476/78ヴェローナ~1553.08.06ヴェローナ北の現アッフィ】は、医者、哲学者、天文学者、地理学者、文学者であり、全時代を通じて偉大な医師の一人と考えられている。ニコラウス・コペルニクス(Niccolò Copernico)の同僚、友人であり、パードヴァ大学の論理学教授だった。教皇パウルス3世の首席侍医で、彼に天文学の著書『Homocentrica』(1538)を献呈した。ヴェローナ近郊Affi町のIncaffi部落で亡くなった。月面にあるクレーター・フラカストーロは彼に献じたもの。
Fracastoroフラカストーロ像[左、フラカストーロ、右、ヴェローナ、スィニョーリ広場のフラカストーロ像、両者サイトから借用]  医学への貢献: 近代病理学の基礎を固めた一人。科学者としての研究は、感染とは有機体の中で増殖し、呼吸あるいは異なった形での接触を通して伝染する可能性のある病気を持つ者の菌に負うものであると仮説を立て、証明した最初の人であった。科学者としての文献の中で、長短短六歩格詩のヘクサメロン叙事詩の短詩形(1521年執筆、1530年出版)で、"Syphilis sive de morbo gallico"(Sifilide(梅毒)あるいはフランス病、この言葉は当時から現在まで彼の命名通りに呼ばれている)と記されている。

1546年の論文"De contagione et contagiosis morbis"(感染と伝染病について)、これは現代病理学の始まりである。 」
  1. 2020/05/13(水) 02:05:45|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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