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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアのバッフォ家

『ラスト・ハーレム』という映画があったそうですが、私は見ていません。オスマントルコ末期、イタリアからハーレムに売り飛ばされた少女の話だそうです。そのような運命を辿ったヴェネツィア共和国の少女の実話があります。エロチック詩人ジョルジョ・バッフォが『Un della mia famegia per Levante/ Con so muggier insieme, e con so fia....(東邦に向かう我が一族の一家は/ 妻と娘を同伴し……)』とソネットに謳った Cecilia Baffo の話です。2016.12.08日の町案内(13)等のブログで、バッフォ については数回触れています。

バッフォ家は、Wikipedia によればキプロス島のパフォス(Pafo)出身で、パルマに越し、その後メーストレに移り、827年にはヴェネツィアに移住したそうです。特に聖職に拘ってその方面で活動し、サン・セコンド島にはサン・セコンド教会、カンナレージョ区にはサンタ・マリーア・マッダレーナ(S. M. Madarena)教会を建てたそうです。伝説によれば、この教会傍に自分達の要塞を作ったらしいです。

黄金文書への記載は、ある人は1297年のセッラータ以前に、既に大評議会議員だったとし、この子孫は12世紀から記録が残るそうです。またある人はジェーノヴァ戦争時やティエーポロ謀反時には、明確に貴族として選ばれていたとしているようです。
『ヴェネツィア人物事典』今迄何度か触れてきた、この有名なヴェネツィア語詩人のジョルジョ・バッフォはチェチーリア・サグレードと結婚し、娘が一人あったのですが、そこで一家は消滅したようです。M. ブルゼガーン著『ヴェネツィア人物事典』によれば、チェチーリア・バッフォの一生は次のようだったそうです。
ヌール・バヌー[サイトから借用]「 スルタン夫人(C.1525ヴェネツィア~1583.12.07イスタンブール)となる。

チェチーリア・ヴェニエール或いはチェチーリア・ヴェニエール=バッフォともいう。パロス(Paro)島の総督だったニコロ・ヴェニエールと大セバスティアーノ・ヴェニエールの従妹だったヴィオランテ・バッフォの間に出来た娘で、1537年攫われたのだが、それはオスマントルコの、赤髭とよばれた海賊Khair ad-Dîn(ハイール・アッディーン)に彼の島で襲われ、コンスタンティノープル(Costantinopoli)に鎖に繋がれて運ばれた時のことで、スルタン・セリム(Selim)2世のハーレムに売られたのだった。

しかしスルタンは直ぐにこの美しい少女にすっかり惚れ込んで、イスラム教に改宗させた後、自分の嫁に選んだのだった。名前もNûr Bânû(ヌール・バーヌー(光を守る者の意)と改め、愚か者(lo stolto)と呼ばれたセリム2世の最愛の妻[ハセキHaseki]となり、ムラト(Murat)3世の慕われる母[母太后Valide]となった。

結婚し、続いて母となる事により、彼女の政治的影響力と権力は巨大になっていき、サリム2世が没した時もムラト3世が権力の座に就いた時も変わらなかった。スルタンの母は息子によって有徳の人として常に事は聞き届けられ、尊敬された。

駐在する全ての外国大使達は、彼女に贈り物する時、より珍しい高価な物を競い合ったし、人民は彼女を慕い、宦官や腹心の部下、護衛達に囲まれて20台の馬車の行列でイスタンブールの見える道を通る時にはお辞儀をし、喜びの叫びを上げるのだった。母国ヴェネツィアとの関係も常に良好で、手紙や贈り物の交換が能くあった。

1583年12月7日亡くなった。サンタ・ソフィアのモスクの前の霊廟に夫の隣に埋葬された。彼女の思い出としてあるのはイスタンブールにある、素晴らしい"Yeni Valide Camil"(偉大なる母の新しいモスク)の建立にある。これは1597年、息子スルタン・ムラト2世によって建立された。 」

バッフォ家には今一人、名を遺した人がいます。M. ブルゼガーン著『ヴェネツィア人物事典』から紹介してみます。
スルタンの妻[サイトから借用]「 Dorilla Baffo(1530ヴェネツィア~1605イスタンブール)、スルタン夫人となる。

コルフ(Corfù)島のヴェネツィア総督の娘で、極めて美しい才媛だった。13歳の時、大トルコのハーレムをより豊にするためにと、オスマントルコ帝国の首都で捕らえられた。マホメット教に改宗した後、他でもないムラト(Murat)3世その人に嫁ぐまでほんの2年しか経っていなかった。こうした恋の絡み合いにムラトの母、チェチーリア・ヴェニエール=バッフォが無関係であったはずはない。彼女は母方の血筋ではあるが、バッフォ一族に繋がっていたからである。

彼女は一男メフメト(Mehemet)を儲け、息子はメフメト3世として帝国の王位に就いた。

彼女(Sâfiye Sultanと呼ばれ、純粋なるものの意である)の姿は、トルコ皇帝を西欧社会に近付けようとして、第一人者として遂行した外交関係のお陰にも寄るのだが、彼女が長い全生涯を掛けたほどの苦労ある仕事だったという、非常に重要なものであった。実際、故郷ヴェネツィアとの関係強化のみならず、イギリス女王エリザベスとの書簡の密なる交換も彼女に寄るものである。女王はブリテン島とトルコの最初の貿易を実現することになる。当時フランスの王座を支えていた、マリー・ド・メディシスとも別の密なる関係を築いた。

1605年刺客の手で刺されて死亡した(データは明白でない)。依頼人はジェーノヴァ人だったのではないか、と思われる。彼らは、憎むべきライヴァルには打撃を与え、商業活動では自分の同国人に便宜を与えた、このヴェネツィア女を憎んでいたからである。

モスクは彼女のための、Cairo[勝利者の意?]のAl-Malika Safiyya と呼称が奉献された。 」

この本は上記のように彼女の名前をDorilla (他の資料はソフィーア"Sofia")とし、生年も他の資料の1550~1605/1619と違います。死の模様も描写が違います。トルコの資料は死を1605.01.または1619.11.としています。他のテキストと初期の経歴等も異なります。また英語のWikipediaはヴェネツィア人ではないのでは、としています。過去の事を掘り起こすのですから、色々な考え方があるということでしょう。バッフォ家関連ということで訳してみました。
  1. 2020/07/27(月) 09:42:23|
  2. | コメント:0

彫刻家アントーニオ・カノーヴァ

今迄画家については触れていますが、彫刻家については余り触れていません。三島市にあるヴァンジ彫刻庭園美術館は日本では珍しいイタリア現代彫刻家の個人美術館です。広い起伏ある庭園で彫刻作品を見て歩くのは、楽しいピクニックです。ヴェネツィアから旅立った彫刻家にアントーニオ・カノーヴァがいます。M.ブルゼガーン著『ヴェネツィア人物事典(I personaggi che hanno fatto grande Venezia)』からカノーヴァの人生を垣間見てみます。
『ヴェネツィア人物事典』 「 彫刻家(1757.11.01ポッサーニョ~1822.10.13ヴェネツィア)
新古典主義彫刻の大代弁者であり、イタリア彫刻の最後の大彫刻家である。1757年11月1日トレヴィーゾ県ポッサーニョで生まれた。ヴェネツィアのトッレッティと呼ばれたジョヴァンニ・フェッラーリの工房で見習いとして働いた。そこで擬古典主義的な意味合いのある最初の作品、代表作『オルフェウスとエウリュディケー(Orfeo e Euridice)』『ダイダロスとイーカロスとアポローン(Dedalo e Icaro e Apollo)』を彫った。
自画像[カノーヴァ自画像、サイトから借用] 1779年ローマへ行き、フランス・アカデミーとカピトリーノ美術館の裸体画教室に通った。ローマでの最初の彫刻作品は『ミーノータウロスの上に乗るテーセウス(Teseo sul Minotauro)』で、ヴェネツィア共和国大使ジェローラモ・ズリアーンに注文されたものであった(テーセウスは戦い後、ミーノータウロスの上に腰を据える姿で表現され、非条理なるものに勝利する条理を示している)。

彫刻の中でカノーヴァは理想美を追究したが、その美は芸術家の創念から、自然の中には見出し得ない完璧さというものの上に生まれるものだった。理想美の表現に到達するためには、古典彫刻の知識と模倣が必要であり、彫塑の材料の熟知は言うまでもないことであった。この考えにより芸術家の彫刻は常に大理石で彫られた。時に肉を真似て薔薇色の蠟か琥珀で表面の仕上げがなされたが、滑かで透明な表面になるまで、極力すべすべに仕上げられた。これは『アモルとプシューケー(Amore e Psiche)』(現在この作品はパリのルーブル美術館にある)の彫刻家のグループには明白な事であった。

同じ主題の他の作品には、『ヘーベー(Ebe)』『ウェヌスとアドーニス(Venere e Adone)』『三美神(ローマ神話のアグライア、エウフロシュネ、タレイア―Tre Grazie)』があり、最後の作品の肉感的な優雅さは典型的な新古典主義の完璧なバランスをもって表現されている。

サン・ピエートロ大聖堂のクレメンス(Clemente)13世のモニュメント、サンティ・アポーストリ教会のクレメンス14世のモニュメント、また故人の胸像の前で泣く『友情(Amicizia)』の擬人化を現すヴォルペード(Volpedo)の石碑のような墓標作品に移ろう。1798年アルベルト・カジミール・フォン・ザクセン-テシェン公(duca Alberto di Sassonia-Teschen)がマリア・クリスティーナ(女帝マリア・テレジアの娘Maria Cristina d'Austria)の墓標としての記念碑を注文した。

この作品で彼はピラミッド風の墓を表現した。ローマの紀元前1世紀のガイウス・ケスティウス(Caio Cestio)のピラミッドを、多分イメージしてのことだった。ピラミッドの前にカノーヴァは墓の内部へ故人の遺灰を運ぶ葬列を表現した。故人の肖像は『天界の至福(Felicità Celeste)』によって支えられる門の上のメダルの中に彫刻された。

1802年にはナポレオンによりパリに呼ばれた。ナポレオンは自分の胸像制作の仕事を彼に委ねたが、今日石膏の鋳型の幾つかが残っているだけである。幸いにもカノーヴァは『平定者としての軍神マルス(Marte pacificatore)』の姿でナポレオンの裸像を制作することに専念した。しかし皇帝は喜ばなかった。

更にパオリーナ・ボルゲーゼの肖像を『勝利者ウェヌス(Venere vincitrice)』の姿で彫った。彼女はパリス(Paride)が最も美しい女神に贈った勝利の林檎を手にしている。パオリーナは枕に身体を預け、上半身裸で半ば身を起こした状態で現されている。覆うもののない身体部分は人間らしさを与えるために薔薇色の蠟が塗られている。作品は非常に精確な構成的規範に則った故に、新古典主義特有の冷ややかさを帯びている。

ナポレオン時代末、カノーヴァはローマへ帰った。この時期の作品は芸術家の作風に変化が生じたことを証明している。それは彼の作品を感情に訴えるような、一つの大きな表現で強調するものであり、そうしたやり方で新しいロマン主義的傾向に向かっていたのである。そんな作品に『マグダラのマリア(Maddalena)』『死せるキリストへの嘆き(Compianto sul Cristo morto)』、スチュアート王家の墓標、『ウェヌスとマルス(Venere e Marte)』。

1822年10月13日、ヴェネツィアで没した。 ……」 以下は長い作品の紹介・説明ですので省略です。[作品は≪カノーヴァ≫サイトの画像クリックでご覧になれます。]

下はコッレール美術館のサイト“アントーニオ・カノーヴァ”の≪Le Sale Neoclassiche e la Collezione canoviana≫欄からのコピーです。
――Ai suoi ultimi anni appartengono altre celeberrime creazioni, come Teseo e il centauro, Marte e Venere, Endimione ecc. Concentratosi dopo il 1818 sulla nuova chiesa del paese natale (Tempio di Possagno, su sua idea architettonica e finanziamento), specie nelle opere tarde ad essa destinate, rivela un mutamento di sensibilità in senso chiaramente romantico. Morì a Venezia il 13 ottobre 1822 nella casa dell’amico caffettiere ‘Floriàn’ Antonio Francesconi presso il Bacino Orseolo, a pochi passi dall’odierno Museo Correr.――
カノーヴァの碑、フランチェスコーニ家[国立労働銀行壁面の碑]  上掲のコッレール美術館の引用文にありますように、カノーヴァはサン・マルコ広場脇のオルセーオロのゴンドラ溜り(Bacino Orseolo)傍の、友人のカッフェ店主Floriàn(フロリアーン)のアントーニオ・フランチェスコーニの家に滞在中亡くなったのだそうです。その家は、現在ホテル・カヴァッレットの隣、国立労働銀行がある場所にサン・ガッロ広場に面してかつては建っていたようです。左上の様に銀行の壁面にその碑があります。引用文ではヴェネツィア風に語尾の母音"o"或いは"i"等を省略したFlorianであることを示すために、"a"にアクセント記号が態々振ってあります(Floriano/Floriani⇒Florian。他例、Giustinian、Zulian等)。独国にはフローリアンという名があり、伊国人も知らない人がいるからでしょう。カッフェ・フロリアーン紹介のYoutubeカッフェ・フロリアーンがあります。 
カノーヴァの墓[フラーリ教会のカノーヴァの墓、サイトから借用]  カノーヴァの遺体は生まれ故郷のポッサーニョの神殿に葬られたそうですが、心臓はヴェネツィアのフラーリ教会に葬られたそうです。左上の墓標は彼がティツィアーノのために制作したものだったのだそうです。
  1. 2020/07/10(金) 22:50:12|
  2. | コメント:0

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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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