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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

サン・マルコ小広場の2本の円柱

以前にも紹介したM. ブルゼガーン著『ヴェネツィアの神話と伝説』(2007.10)に、サン・マルコ小広場に立つ2本の円柱についてのお話があります。柱については、今までも少し触れた事がありますが、紹介してみます。
ヴェネツィアの神話と伝説「意気揚々と海路でヴェネツィアに到達し、サン・マルコ岸壁(Molo)から上陸してサン・マルコ小広場を通過する時、広場を額縁で飾るように際立たせる、オリエント渡来のピンクと灰色の花崗岩の2本の素晴らしい円柱は、この町への入市門として象徴的である。今や一千年近くを経、非常に独特の歴史を持つこの勇壮な円柱が、ヴェネツィアに到来した時の事は、事実明白でない。

1500年代の著述家フランチェスコ・サンソヴィーノは、それは12世紀後半コンスタンティノープルから到来したものだと述べ、他の歴史家は総督ドメーニコ・ミキエールが聖地エルサレムから戦勝による凱旋帰国時の1125年に齎されたものだという。

しかしサンソヴィーノは更に言っている。ヴェネツィアに届いた円柱は実際は3本でその内の1本は陸揚げの最中、海中へ落ち、再度陸揚げする事が叶わず、16世紀の時点でも泥濘の底に沈んでおり、視認出来ないが、潟の底の泥の中にあることが確認出来たという。事実はどうであれ、確かな事は何年もの間海底に横たわる柱は、誰もそれを立ち上がらせることが出来なかったということである。
2本の柱のあるピアツェッタ[ターナー画『雷雨下の2本の円柱の見えるピアッツェッタ』]  結局1172年ロンバルディーア出身の工学のエキスパートで、マエーストロであったニコロ・バラッティエーリが比較的簡単なやり方で、それを直立させる手法を見付けた。それは太くて強靭な鋼索を濡らして結び付け、索で結び付けられた円柱は数cmずつ乾くに従って上方に引っ張られるという仕組みだった。

直ぐに砂袋で円柱の下につっかいをして、円柱を固定し、鋼索の濡らしと乾燥を交互にするやり方で数cmずつ立っていった。こうして工学的な一大作業が実現し、バラッティエーリは金銭的な褒賞を欲しがらず、賭博法の特例として、2本の円柱足下でなされるサイコロ賭博の独占的な専売所が彼に認められた。当然バラッティエーリは大変裕福になった。

円柱の強固な基底部とヴェーネト・ビザンティン様式の地味な柱頭は、多分同じバラッティエーリの作品である。基底部は15世紀に"Mestieri"達の発想で彫られたものである。2本の円柱の上には、ヴェネツィアの歴史の中で最も重要なシンボルが置かれた。一つはエラクレーアで殉教死した兵士、聖テオドールス(ヴェネツィアの最初の守護聖人――総督宮殿にオリジナルがある。ヴェネツィアでは伊語風にサン・テオドーロではなく、“サン・トーダロ”と言うようです)の像、今一つは共和国の町のパトロンであるサン・マルコのシンボルである有翼のライオン(実際はササン朝ペルシアか中国のキメラ怪獣)である。

フランチェスコ・サンソヴィーノが第3の円柱について書いた事が真実なら、疑心暗鬼になるのは当然である。この第3の柱の捜索と発見に、今日では自由に設置出来る精巧な捜索機器を用いて進めることが出来る? あるいはそれを無視しようということか? そして奇跡的に海底から引き上げられると仮定して何が生じると想像されるか? この第3の柱で何がやれるだろうか? 我々は小広場にそれを設置したのだが、でもどこに第3の柱は? 

何世紀もの間、元の素晴らしさのまま手付かずにそこにある、その建築的・芸術的判断を引っ繰り返してしまう勇気があるのか? あるいは博物館に片付けてしまうのか? 基底台も柱頭もない物に何が言え、何が語られるか?
[事実、この柱の探知のために、現在では広がったサン・マルコ岸壁海岸通りを調べているそうです。2017.01.01日の第三の円柱を調べる記事を載せるラ・ヌオーヴァ紙について書きました。]

もし存在するとしても、探さずに泥濘の礼拝堂に鎮座ましまして、その事を夢見、それについて語り続け、その仮定や夢を推し進める触媒としての役目を幅広く展開する方が、多分より良いに違いないのである。

1800年代までずっと、トーダロと有翼の獅子の柱の間には、不幸なるものが到来していると言われてきた。その理由は、セレニッスィマ共和国の叙事的時代には、事実2本の柱の間で絞首刑、斬首刑、四つ裂きの刑の死刑の判決が実行されてきた。まだ敷石が無かった時代、下の土は何世紀もの間、呪術的な混ぜ物で激しく捏ね捲られた、更に言えば、血の染み込んだ土砂だったのだ。

直ぐ判るように指で引っ掻くのは容易ではなかったが、勇敢な女性か、死に物狂いの他の女が、時々夜陰に乗じて、あるいは木靴か何かを拾って来て危険に対して挑んだこともある。2本の柱の間の台の上では、異端の輩や≪strighe et herbere(魔女の類)≫が自分達の罪を告げる紙を持たされて、何時間も世間の笑い者になったのであった。 」
 ――マルチェッロ・ブルゼガーン著『ヴェネツィアの神話と伝説』(Newton Compton editori、2007.10)
  1. 2020/09/30(水) 23:29:03|
  2. ヴェネツィアの広場
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ヴァポレットを待ちながら

年に2~3か月、数年に亘って伊語の勉強のために通学したヴェネツィア学院から、未だにヴェネツィアに関する本等の抜粋を読むようにとメール便で送ってきます。相当溜りました。その中から最近のものを訳してみます。ピエルルイージ・アレッサンドリという人の文章です。

「……ザッテレでヴァポレットを待ちながら……
ヴェネツィアでは他でもない、リード島で慣例になっている事があった。時に土曜日か日曜日の事であるが、父親とのテニスの試合で、サンタ・マリーア・エリザベッタ教会の方に向かって、ヴァポレットに乗った。偶然にそのルートを選ぶということではない。

その頃、スポーツクラブのあったエクセルスィオールの停留所にヴァポレットから直接降りることが出来たかも知れなかったが、僕達甘い物好きの人間のいつもの習慣があって、そこでは果物やクリーム、チョコレート……他所にはない独特の、素晴らしいジェラートを売っているティッタというアイスクリーム屋が大通りにあって、避けて通れないのであった。

ティッタは大サッカー選手で、大狩猟会の旅では父の友達であり、彼は甘い物好きが立ち寄ることが出来るように保証付きの物を提供していて、行くと挨拶を交わし、お喋り(ciacoe―ヴェ語)し、次回の大掛かりな狩猟の予想をしながら、二人の欲求を充分に満たしてくれた。

レジにはティッタの奥さんが居て、何時も金銭の受け渡しなど会計には気を付けていた。長く、ちじれた白髪で、首には黒いビロードのリボンを結び、太陽を浴び過ぎて日焼けした皺の多い顔に、ジプシー風の二つの濃紺の眼が際立っていた。

その目付きが突き刺すような鋭さだったので、僕は見られると、その視線に耐えられなくて、耳にぶら下がったブルボン王朝風のド派手な耳飾りにただ目をやっているだけだった。

その後の年月、リード島は友達や女の子達と心配することなど何もなしに過ごせる夏の夜の場所となった。夏の特別の時と言えば、それはレデントーレの夜。毎年正確に7月の第3土曜日のことである。
レデントーレの花火大会[以前の“ラ・ヌオーヴァ紙”からの借用]  灼熱のラグーナとなる花火(foghi―ヴェ語)が終わり、砂浜へ向かって船で出発し、焚火を燃やし、西瓜を切り、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、バッティスティ、デ・アンドレをギターで歌い、夜明けを待ったものだった。

曙光が射し始めるや全員入水する。僕達は少々ほろ酔いで、自分達の人生に夢中であり、時にはこんな風に遍歴放浪して、羽目を外し、自由なのだ!

『52番線です!  ピアッツァーレ・ローマ(ローマ広場)、フェッロヴィーア(鉄道駅)方面です、注意して下さい、ゆっくりですよ!……』 突如甦る記憶が、ヴァポレットが停留所にぶつかる衝撃で消えていく。 」
『レデントーレの夜』ジュデッカ島側から見た、peate船上の浮橋(昔の写真から)[左、ガブリエール・ベッラ画『レデントーレの夜』、右はジュデッカ運河に架けられた、レデントーレ教会への peate 船上の浮橋(ジュデッカ島側から見た、昔の写真。サルーテ教会のクーポラやサン・マルコの鐘楼も見えます)。この浮橋を渡ってレデントーレ教会にお参りします]  私の初めてのレデントーレの夜は1990年代の事でした。ヴェネツィアの友人の知り合いがジュデッカ島に設置したテーブルに寄せて頂き、foghi 最後まで楽しませて頂きました。皆さんはその後リード島に渡り、日の出を拝して帰るんだとのことでした。懐かしい思い出です。今年のコロナ禍でのお祭りはどうだったのでしょうか。
  1. 2020/09/17(木) 15:50:12|
  2. ヴェネツィアの行事
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ヴェネツィアの喫茶店(カッフェ): botteghe di caffè(コーヒー店)

PCのヴェネツィア話の中に『I Caffè veneziani del sattecento』というブログがありました。参考までに訳してみます。
「最初のコーヒー店は、ヴェネツィアでは17世紀後半に、流布した。1683年既にサン・マルコ広場の新行政館に1軒開店した。そして更に他にも街中に出来た。しかしそれは次の世紀になっての事で、沢山の店の誕生を見たが、その時から社会事象の重要事となり始めた。

1759年にはこの種の店が、ヴェネツィアの都市構造の中でそうした広がりを見せたので、法令は最大でも206店までの開店に限定した。サン・マルコ広場には多数の店が出来、旧行政館には次のような名前のカッフェがあった。即ち、フランス王(Re di Francia)、豊富(Abbondanza)、英雄ピット(Pitt l'eroe)、ハンガリー女王(Regina d'Ungheria)、オルフェウス(Orfeo)、救世の人(Redentore)、勇気(Coraggio)、天空のアーチ(Arco Celeste)、鏡(Specchi)。

新行政館には栄えある時代のヴェネツィアのカッフェが店を構えていた。守護天使(Angelo custode)、トスカーナ公(Duca di Toscana)、救いの神(Buon genio)、総督(Doge)、皇帝(Imperatore)、ロシア女皇(Imperatrice delle Russie)、タメルラーノ(Tamerlano)、泉(Fontana)、月の女神ディアーナ(Diana)、ヴェーネト夫人(Dama veneta)、夜明けの光アウローラ(Aurora)、おはじき遊び(Piastrelle)、平和(Pace)、黄金の樹木(Pianta d'oro)、アラブ人(Arabo)。
カッフェ「フロリアーン」こうした中で最も有名で今日も存在するのは、言うまでもなく栄えある時代のヴェネツィアの印としてのカッフェ、創立者フロリアーノ・フランチェスコーニの名前からカッフェ・フロリアーン(Florian―語尾の"o"省略)として能く知られ、1720年に開店した。
クァードリ[サイトから借用]  他にも同様に知られ、現在も存在する、フロリア―ンの真向いにあるカッフェ・クァードリ(Quadri)がある。その名前はコルフ島出身の、最初の店主ジョルジョ・クァードリに由来し、19世紀初頭に開店した。

この二つの近くに、他にもカッフェがあり、鐘楼近くに“夜明けの光アウローラ”があって、磁器と陶器の豊富なコレクションで記憶され、1723年開店した。“ナーポリ人(Partenopeo)”は非常に清潔でエレガントな店で、この店特製のジェラートで取り分け有名だった。

更に街には沢山の店が増加し、“ムーア人(Mori)”、サン・モイゼ教会傍の“沿岸(Rive)”等や、ヴェネツィア人を驚愕させようと(ドッキリを仕掛けた)、極秘にフレッツェリーア通りに1762年、アントーニオ・ベニンテンディが作ったカッフェはまた別種のものであった。

フレッツェリーア通りには更に“ステーファノ(Stefano)”と“ゴッボ(佝僂―Gobbo)と言うカッフェがあり、“ダンテ(Dante)”と呼称されたカッフェもあった。アックェ通りにはバレッテリ橋傍にヴィンチェンツォ・マリーア・コロネッリが、1724年に≪チョコレート、コーヒー、氷水、清涼飲料水ほか同種の飲み物≫が最上の店と定義した有名なカッフェがあった。 

メルチェリーア通りのサン・ズリアーン(S. Zulian―伊語S. Giuliano)教会傍に超有名なカッフェ・メネガッツォがあり、大文学者が沢山贔屓にした。その中には、ゴッズィ(Gozzi)兄弟、ファルセッティ(Falsetti)兄弟、セバスティアーノ・クロッタ、ジュゼッペ・パレッティ等があり、ここでダニエーレ・ファルセッティはグラネッレスキ・アカデミー(Accademia dei Granelleschi)の創設を決めたのだった。」
[グラネッレスキ・アカデミーの創設については、2012.05.26日のダンドロ・ファルセッティ館や2016.10.20日のメネガッツォをご参照下さい。ヴェネツィア人のユーモアの一部が理解出来ます。]
ラヴェーナ[サイトから借用]  この伊語のブログは全然触れていませんが、旧行政館にはカッフェ・クァードリの並びにカッフェ・ラヴェーナ(Lavena)があり、ドイツの作曲家ヴァーグナーが通ったことで夙に有名です。この喫茶店はチェスキーナ家の持ち物で、イタリアの大富豪レンツォ・チェスキーナ伯爵と結婚された日本人永江洋子さんが、レンツォ伯爵亡き後、ヴェネツィアで活躍されている姿をTVでお見掛けしたことがあります。2015.01.13日にチェスキーナ洋子さんについて書きました。
  1. 2020/09/11(金) 22:24:30|
  2. 喫茶店
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ヴェネツィアの喫茶店: アンジェロ・コーヒー店

2016.10.20日に喫茶店メネガッツォについて書きましたが、ヴェネツィアには古い喫茶店として1720年創業のカッフェ・フロリアーンがあることは夙に有名です。塩野七生さんの本『イタリア異聞』(新潮社、1982年7月15日発行)の《大使とコーヒー》の章によりますと、1585年トルコ帝国駐在大使ジャンフランコ・モロズィーニが本国に≪トルコ人は cave'e と呼ばれる種から取った、煮え立っている黒い色をした飲物を飲むのです。この飲物は飲む人の頭をはっきりさせる効果があるとか≫と報告書を送ったそうです。

モロズィーニは帰国時その種を持ち帰り、この魅惑的な飲物はヴェネツィアの上流社会に次第に広まり、1638年にはサン・マルコ広場旧行政官回廊の一画に、ヨーロッパで初めてのコーヒー店(bottega di caffè)が開店し、それを切っ掛けに直ぐにヴェネツィアで喫茶店の流行が始まったという話を読んだことがあります。

パリに行った時知ったのは、コルメス・サンタンドレ通りに“プロコープ”というキャフェがあり、スィチーリアのパレルモ出身のフランチェスコ・プロコーピオ・デイ・コルテッリという人が1686年に創業した店だそうで、現在もレストランとして存続していました(パリ初のキャフェは1672年だとか)。カッフェ文化は奥が深いようです。
『ヴェネツィア奇聞』前にも紹介した『ヴェネツィア奇聞』(1897年)に次のような話があります。
「サン・マルコ区のアンジェロ橋とリメーディオ橋の間に、地味なワインを飲ませる店が開店していて、かつてその店の中に、2階に賭場があるカッフェがあった。そこには共和国末期に貴族達、とりわけサン・バルナバ教区に居住した貧乏貴族として名前の知られたバルナボート達が出入りしていた。

このクラスの貴族は政府のやり方に不満を抱いており、新しい事を熱望し、自分達の首領格として認めるジョルジョ・ピザーニがプロクラトーレ・サン・マルコ(サン・マルコ財務官。総督に次ぐ職業)に1780年3月8日任命されるのに貢献したのである。

しかし即ではなかったが、国家査問委員会が彼の犯罪的意図を嗅ぎ付け、任命された2日後彼を拘束する決定を下した。査問委員会の配下の者を恐れたクリストーフォロ・デイ・クリストーフォリが、ある夜“アンジェロ・コーヒー店”にピザーニと面談しようと赴いたところ、彼は既にヴェローナに向けて出立していたという話である。彼はサン・フェリーチェ城で自分の罪を贖わねばならなかったのである。

“アンジェロ・コーヒー店”の別の顧客は、一晩中賭け事をしていた者であるが、その人物はこの時代、血腥い重罪を犯したアレマンノ・ガンバラ伯爵である。このカッフェで頻繁に賭け事をし、それをバッラリーニに書き送っていた。≪“アンジェロ橋のカッフェ”は半ば私設のカジノになてしまった。そこで一晩中賭け事をするんだ。カヴァリエーレ勲章を佩勲されたマードレ閣下はテルツァの時間になってもそこを動こうとなさらない。≫[Terza(第三番)の時間とはサン・マルコの鐘楼の鐘(trottiera o quarantiaと呼ばれる)が朝の9時に鳴り、大評議会に集まるよう貴族達に鳴り響いた。]

四つ脚獣の犬もまた、このカッフェの知名度を上げた。オノチェーファロ・チノグローザの名前でヴィンチェンツォ・フォルマレオーニが賛歌を出版したが、その絶賛された『Elogio del Cane Tabacchino(タバッキーノの犬の賛歌)』に日数を掛けたのである。この小冊子は艦隊司令長官アンジェロ・エーモを称えるウバルド・ブラゴリーニの追悼演説のパロディーだとされ、政府の命令で押収された。

カッフェ・デッランジェロ(Caffè dell'Angelo)が酒場の空間の一部と化したのは共和国末期のことで、上の階は個人の住処になった。しかしそこでは、新しい生活の様相が覗かれ、提供されるワインの美味しさで評判を呼ぶ価値があったに違いない。

ガスも石油もなく、少々悪臭を放つ、相変わらず植物油のランプの明かりがテーブルの上で輝いていた。しかしその代わりに、そこでは最美味のプロセッコ・ディ・コネリアーノを味わっていたのである。その事を多くの人は思い出すことが出来るのだが、店の支配人の故ヴィンチェンツォ・ゴッボが守護聖人達の聖像をいつも貼り付けた服装、長いだぶだぶの外套と山高のシルクハットを身に纏い、金のポケットには小銭をじゃらじゃらさせていた姿である。 」
  1. 2020/09/05(土) 23:50:55|
  2. 喫茶店
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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