イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――カザノーヴァ(1)

かつてジャーコモ・カザノーヴァ(1725.04.02ヴェネツィア~1798.06.04ボヘミアのドゥックス)の少年時代を描いた映画、ルイージ・コメンチーニ監督『カサノヴァ回顧録(Infanzia, vocazione, e prime e sperienze di Giacomo Casanova)』をイタリア文化会館の《チネテーカ・イタリアーナ》シリーズで見たことがあります。フェッリーニ監督の『カサノバ』はチネチッタのセットで撮られた映画でしたから、現実のヴェネツィアは見れませんでした。[You tubeにこの映画がありました、次です。Giacomo Casanova]
チネテーカ・イタリアーナ『カサノヴァ回顧録』解説その後イタリア文化会館で行われたカザノーヴァ展は、彼の自由人としての面に光を当てた展覧会で、18世紀の自由ということについて考えさせられました。そんな訳で初めてヴェネツィアの語学学校に通った時、アパートから学校のあるサンタ・マルゲリータ(S.Margherita)広場まで行くのに、サン・サムエーレ教会傍のマリピエーロ(Malipiero)通り(彼が生まれたことを示す標識盤があります)を毎日通ったので、彼に対する感慨が色々湧いてきます。
カザノーヴァの碑「この通りのある家でジャーコモ・カザノーヴァが、1725年4月2日生まれた」 「母はまづだいいちに、私の面倒を見ねばならぬと考へた。それは偏愛のためばかりではなく、私が病身だったからで、そのために私は、どういふふうに扱ってよいか、扱ひにくい子供になってゐたからである。私は極めてひ弱で、食慾もなく、なにをさせても身がいらず、まるで薄馬鹿のやうな樣子をしてゐた。

醫者たちは、私の病氣の原因について、いろいろ議論をした。『とにかく、一週間に二リーブルも血をなくしてゐる。血液量は全體として、十六リーブル乃至十八リーブルしかないといふのに、これほど多量な血液生成が起こる理由はなにに基くのか?』と、彼らは語り合ってゐた。一人の醫者は、私の乳糜がみんな血に變るのだといひ、またある醫者は、私の呼吸する空氣が呼吸のたびごとに肺臟の血をふやしてゐるので、私がいつも口を開いてゐるのはそのためだといふ説をたてた。

このことは、それから六年後に、亡父の無二の親友であったバッフォ氏から聽き知ったところである。

パドヴァの有名な醫者マコップ氏に相談してくれたのもこのバッフォ氏であった。マコップ氏は書面で彼に意見を述べて寄越した。私は今もなほその書面を持ってゐるが、それによると、われわれの血液は彈力性のある流動體で、量こそ增減しないが、濃度に增減のあるもので、私の出血の場合も、血液全體の濃度に起因し、循環作用を容易にすることによって自然に症狀を輕快にさせることができるといふのである。

また、生きやうとする本然の力に助けられてゐなかったら、私はとっくに死んでゐたらうとも書いてあった。そして、私の血液が濃厚になった原因も私の呼吸してゐる空氣の性質にあるのだから、その空氣を變へさせるか、あるひは、坐して私を喪う覺悟をするか、二つに一つであると結論してあった。

なほ、彼の説によれば、私の顔つきがどことなく間拔けに見えるのも、實はすべて私の血が濃くなったことからきたのだといふことであった。

そもそもバッフォ氏といふ人物は才華絶倫、いかなる種類のものも企て及ばない最も淫靡な作風をもって鳴る詩人であったが、また實に、雄偉無雙の人物でもあった。……」
  ――『カザノヴァ回想録』(第一巻、岸田國士訳、岩波文庫、1952年4月25日発行)

文中彼が言うバッフォ氏とは、エロチック詩人ジョルジョ・バッフォのことで、彼の詩集『Sonetti Licenziosi』(La Spiga Meravigli刊、1994)という本をヴェネツィアで購入したのですが、ヴェネツィア語で書かれた詩はとても私の手に負えるものではありません。
Giorgio Baffo『Sonetti licenziosi』ジョルジョ・バッフォの家サン・マルコ(S.Marco)広場からサント・ステーファノ(S.Stefano)広場へ向かい、その一つ手前のサン・マウリーツィオ(S.Maurizio)広場に入ると、歩く進行方向正面のベッラヴィーテ=ソランツォ=バッフォ館(Palazzo Bellavite-Soranzo-Baffo o Bellavite-Terzi)の壁面に「ここに1694~1768年ジョルジョ・バッフォが住んだ。彼は勝手気儘で仰々しいばかりの言葉で愛の詩を歌った。ギヨーム・アポリネール記、1910年」とプレートが掲げられています。その碑の左側には「この家にアレッサンドロ・マンゾーニが1803~04年住んだ」というプレートもあります。

アルセナーレ西側の、アパートを借りたド・ポッツィ(Do Pozzi)広場の更にその西の島にバッフォという名の小路と広場もあります。貴族のバッフォ家は827年にパルマからヴェネツィアに来て、この地に住んだのだそうです。カンナレージョ区のサンタ・マリーア・マッダレーナ教会はバッフォ家によって建立されたと言います。バッフォ家は詩人ジョルジョをもって絶えたようです。
  1. 2009/07/04(土) 00:02:36|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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