イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアと日本との関係(2)

ヴェネツィア人マルコ・ポーロが中国から帰国後、彼の『東方見聞録(Il Milion)』の中で日本のことをジパング(ズィパング―Zipangu)として世界に紹介したことを知らない日本人はいないのではないかと思われます、彼がヴェネツィア共和国の人であったことを知らなくても(上掲の写真にはマルコの家であることを示す碑文が掲げてありますが、最近の研究でここではなく直ぐ近くの場所だとする説があるそうです)。
マルコ・ポーロの家マルコ・ポーロの家[左の旧ポーロ家は近年修復されました] マルコ・ポーロの家[ファサードのマルコの碑]
[追記=2010.12.25日に書いたブログ文学に表れたヴェネツィア――ジェイムズ・カウアンで、マルコ・ポーロの影響を受けたヴェネツィアのサン・ミケーレ修道院の修道士マウロが書いた地図には、isola de Zimpagu(ジンパグ)としてヨーロッパの地図で初めて日本が書き込まれたそうです。修道士マウロはスペルを間違えたのでしょうか]

それから250年以上経って、天正の四少年使節がローマにやって来ました(1585.03.20)。日本への帰国途上、ヴェネツィアにも立ち寄りました(1585.06.26)。実は彼らがリヴォルノに上陸した時(1585.03.01)、時のトスカーナ大公フランチェスコ1世は、少年達の一行をピーザのお城に招きました。その日の夜会で、大公妃ビアンカ・カッペッロはファブリーツィオ・カローゾの曲(?)に乗って伊東マンショと踊ったと言われています。カローゾの舞踊曲は踊りたい相手に花を渡して一緒に踊り、踊りが終わるとその相手が次に踊りたい相手にその花を捧げ、踊り相手が新しく代わるというように、男女が次々に代わっていくというものだそうです。

ビアンカは塩野七生さんの『愛の年代記』(新潮文庫)でも書かれているように、ヴェネツィア貴族バルトロメーオ・カッペッロの娘でした。この町に働きに来ていたフィレンツェの青年ピエートロとフィレンツェに駆け落ちします。そして当時の大公フランチェスコに見染められ、前大公妃が病弱で亡くなった後、トスカーナ大公妃となりました(その時には駆け落ちして夫となったピエートロは、深い仲になったある未亡人の家族達に暗殺されていました)。
ビアンカ・カッペッロ右はビアンカ・カッペッロの生家ビアンカは初めて日本人男性(伊東マンショ)とダンスを踊ったヴェネツィア女性第一号となりました。語学学校通学のため、偶々彼女の生家近くにアパートを借り、リアルトの方へ出る度、毎日のようにその館の前を通り、見上げたものでした。
[彼女の生家へは、リアルトからサンタポナール教会前で左へビアンカ・カッペッロ(Bianca Cappello)通りを進むと直ぐにストルト(Storto)橋に出ます。その橋の上で右を向けば彼女の家が眼前です。上掲左の写真はサンタポナール(S.Aponal)運河の手前奥から見た正面どん詰まりにある彼女の生家モリーン・カッペッロ(Molin-Cappello)館です。フルッタローラ(Furatola――総菜屋)とバンコ・サルヴィアーティ(Banco Salviati)の軒下通りが長く続く美しい眺めです。右はストルト橋から見上げたモリーン・カッペッロ館]
巨人の階段カナレット『巨人の階段』[右、カナレット画『巨人の階段』] 総督宮殿中庭にある巨人の階段は通常、人の通行は禁じられています。この階段を登った最初の日本人は天正の四少年ローマ使節だったそうですが、最後に登った日本人は、1987年6月8日のヴェネツィア・サミットに参加した中曾根首相だそうです。下の写真は四少年遣欧使節が1585年にヴェネツィアを訪ねたことを示す碑盤で、サルーテ教会左隣の総大司教神学校の回廊(chiostro)壁面にあります。天正のローマ使節(2)に文面を転写しています。
天正遣欧使節の碑天正の使節が訪伊した次の世紀、再びイタリアに日本人の姿が現れました。伊達政宗使節の支倉常長の一行です。チヴィタヴェッキア港に上陸したため、港に彼の銅像があると聞きました。マドリードに到達し資金も尽きたようですが、スペイン国王の許しがあり、信仰のためローマまで行って宜しいと、資金を提供してくれたため、ローマまで辿り着くことが出来たと言います。
Da Sendai a Roma[支倉常長に関する書『仙台からローマへ』(イタリア、Office Move編集刊)] ヴェネツィアにも来てほしいとの要請があったそうで、しかし支倉が体調を崩し、日本から一緒に来ていたヴェネツィア出身のお付きのパードレ、グレゴーリオ・マティーアスに挨拶状と贈答品の書物机を託して、彼自身はジェーノヴァでグレゴーリオの帰りを待っていたそうです(ヴェネツィアの元老院はマティーアスにはメダルの付いた金鎖、支倉には銀の十字架と聖杯を送ったとか)。

スペインにはハポン(日本)さんという名前が沢山あり、支倉の一行の出発時と帰国時で乗船していた人数に相当隔たりがあることから、スペインに残った日本人があったに違いない、と調べている人がいます。この話があるため、近年仙台の人達がヴェネツィアにも残った人がいたのではないかと、サン・ミケーレ島に調べに行ったと聞きました。

こうした過去があったため、明治時代、米欧回覧使節岩倉具視一行がアメリカ、ヨーロッパを回り、イタリアの最終地ヴェネツィアで当地の東洋学者グリエルモ・ベルシェ(Guglielmo Berchet)の案内で、フラーリの古文書館で、天正四遣欧使節と伊達政宗使節の挨拶状を発見しました。それが切っ掛けで両使節の日本での研究が始まることになります。

岩倉使節が在ヴェネツィア時、アレッサンドロ・フェ・ドスティアーニ第3代日本公使との間でヴェネツィアに領事館が置かれることになりました(数ヶ月後にミラーノに移動)。それと共にヴェネツィアに日本語学校がヨーロッパで初めて設置されることになりました(1873~1909)。
古モチェニーゴ館右寄りの2・3階中央に四連窓がある館が初めて日本領事館が置かれたコンタリーニ・デッレ(ダッレとも)・フィグーレ館で、領事館が置かれた当時はグイッチョリ館と呼ばれたそうです。この館の左隣は古モチェニーゴ館で私が初めてアパートを借りたので、懐かしさが溢れます。
緒方惟直の墓1873年に始まった日本語学校の2代目教師は緒方惟直(これなお―緒方洪庵の第十子)で、彼は若くしてヴェネツィアで亡くなり、サン・ミケーレ島に葬られました。日本人の墓第一号です(1878)。

ヴェネツィア・ビエンナーレは1895年に第1回が開かれました。その特別展はパリで活躍したモディリアーニの回顧展でした。彼の黒っぽい肉体表現は、当時のヴェネツィア市長には気に入らずそれを酷評したと言います。第2回目の特別展(1897)には、日本の工芸品が展示されたそうです。パリでもてはやされたジャポニスムの影響があったのでしょうか。
[追記: 大間違いを冒しています。アメデーオ・モディリアーニ(1884リヴォルノ~1920パリ)は1903~05年ヴェネツィアで絵画の勉強をしています。1906年にはパリへ越し、日本人画家藤田嗣治やスーティンらとも知り合いになり、35才の若さで亡くなりました。1895年の第1回ビエンナーレで彼の展覧会があった筈はありません。それは彼の死後の1922年のことでした。]
モディリアーニモディリアーニの家[サン・セバスティアーノ(S.Sebastian)橋傍の、モディリアーニ勉強中の下宿] 第二次世界大戦後ヨーロッパで初めて、1954年(昭和29年)第13回ヴェネツィア演劇ビエンナーレの時、能楽が招かれました。前もって日本で作った舞台をヴェネツィアに送り、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会裏の庭園にある野外劇場テアートロ・ヴェルデ(緑の劇場)の上に組み立て、観世寿夫と当時喜多流で修行していた観世栄夫らが中心となって『葵上』等演じたそうです。能楽のヨーロッパ初演です(2年後のパリ公演も評判になったとか)。
テアトロ・ヴェルデヴェネツィア能公演葵上 サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会[左、テアートロ・ヴェルデ、中左、当時のポスター(両者共サイトから借用)、中右、『葵上』切手、右、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会]
  1. 2009/10/31(土) 00:01:22|
  2. | コメント:4
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コメント

こんばんは! わぁ、写真が入りました、おめでとうございます!!
やはり目で見えると、ずいぶんと分かりやすい気がして、嬉しいです。
ビアンカの生家のこと、そうですね、先日のヴェネツィアで探しに行けば良かったです。 
でも、これは確かに見た覚えがあります。もう一度住所を地図の上で確かめてみますね。

と、ビアンカが伊藤マンショと踊ったのは、ピサのお城でしたか? 私は、フィレンツェのピッティ宮とばかり思っておりました。

教えていただいたおかげで、サン・ミケーレの緒方維直のお墓参りも出来、何か安心した想いです。
  1. 2009/11/01(日) 23:26:42 |
  2. URL |
  3. shinkai #-
  4. [ 編集 ]

コメント、有難うございます。
喜んでいただけて、嬉しいです。しつこくヴェネツィアに拘って、探していると
思いがけないことに出会ったりして、自分でも驚きます。めったにないことです
が。
使節たちはピーザに5日、フィレンツェに7日逗留したそうです。彼らはイエズス
会修道院の宿舎に泊ることになっていたそうですが、フランチェスコ1世はそれを
許さず、彼の城に泊めたといいます。
緒方惟直は誤って墓石に名前を維直、生年1853年を1855年と第四代日本語教師
長沼守敬(彫刻家)によって彫られてしまったのだそうです。
  1. 2009/11/02(月) 12:53:54 |
  2. URL |
  3. ペッシェクルード #/plE8HKU
  4. [ 編集 ]

こんばんは! 再度です。

いやぁ、あの先に頂いていた写真でも驚いていましたが、実際に見た緒方維直の文字が大変美しかったので、これは誰が彫ったのか、と大変疑問だったのです。

いくら日本文字の手本を見せたにしても、イタリア人ではああは彫れなかろう、それにローマ字も大変しっかりしているし・・、石を日本に送ったりはしないだろうし・・、と考えていた所でした。
有難うございました。 疑問が解けました。
そして、では亡くなったのは25歳だったのですね。 安心しました。 余りにも若死になので、たとえ2年の違いでも少し気が休まります。

若冲、ですか、これは少し羨ましいです。  四国の金比羅山で植物画を見ましたが、凄い画家ですねぇ!
  1. 2009/11/02(月) 21:35:40 |
  2. URL |
  3. shinkai #-
  4. [ 編集 ]

コメント、有難うございます。
画集から最高に気に入っている『動植綵絵』の「雪中鴛鴦図」を取り込んで
みました。ポイントと思われる赤い花の色など、PC上では今ひとつ鮮やかさ
が足りませんが、ご覧になってみて下さい。
  1. 2009/11/03(火) 07:42:40 |
  2. URL |
  3. ペッシェクルード #/plE8HKU
  4. [ 編集 ]

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プロフィール

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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