イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

オーリオ・セミテーコロ・ベンゾーン館とサルヴィアーティの家

ヴァポレット1番線でサンタ・ルチーア鉄道駅に向かって大運河左岸を眺めながら下って行きます。そしてジェノヴェーゼ館から更に前進しますと、ナーニ・モチェニーゴ館(16世紀?)、その右のトラゲット通り(calle del Tragheto)を挟んで、サントマーゾの家(14世紀?)があり、次の建物はゴシック式の窓を覗かせたオーリオ・セミテーコロ・ベンゾーン館です。このベンゾーン館について前にも引用しました『大運河――館と一家』(1993年)は次のように書いています。
オーリオ・セミテーコロ・ベンゾーン館、サルヴィアーティ館等オーリオ・セミテーコロ・ベンゾーン館とサルヴィアーティ館「この美しい館の起源は、1300年代半ばまで遡ることが出来るが、以来何世紀にも渡って建物に対して粗略な扱いがなされてきた。ゴシックの尖頭式の大門と2階の六連窓がその起源を示している。六連窓は豪奢な飾り柱で、上部のアーチ空間が柱の上に四連窓風に作られている。

オーリオ家は非常に古い家柄で、1000年前グラデニーゴ家やジュスティニアーン家と共にリアルトの未開の湿地帯を干拓して、彼らの住宅を建てた。」

その右には正面に一枚の美しい色ガラスのモザイク画を掲げたサルヴィアーティの家があります[左のオーリオ・セミテーコロ・ベンゾーン館と右中央のサルヴィアーティの家]。『大運河――館と一家』(前出)は次のように言っています。
中央はサルヴィアーティ館サルヴィアーティの家「このルネサンス様式で建てられた1800年代の小さな建物は、1924年に更に上に増築された。製作用の窯を設置しているガラス店サルヴィアーティの本拠地であるこの家は、モザイクで飾られたファサードが正面に見える。」

上で触れたトラゲット通りは、対岸のトラゲット広場(Cp.del Tragheto)との間にゴンドラの渡しが通っています。私が初めてこのトラゲットで、右岸から左岸の税関岬に行くために乗船した時は、350リラ(現在の35円位)でした。現在の0.5ユーロ(1ユーロ=約135円)からすれば、当時は格段に安かったのが分かります。

11月21日にはサルーテ教会の例祭があります。その数日前からトラゲット広場と左岸のトラゲット通りを結ぶ架設の奉納の橋(ponte votivo)が架橋されます。私も一度サルーテのお祭りに参詣したことがありました。
サルーテ教会へのお詣りの浮橋。Alvise Zorzi『Venezia ritrovata』から借用サルーテ教会へのお詣りの、かつての浮橋。Alvise Zorzi著『Venezia ritrovata 1895-1939』(Arnoldo Mondadori Editore刊)から借用
この橋は大動脈である大運河に架けるため、ヴァポレットの通行を止める訳にはいかないので、船の往来可能なように、橋桁を高く上げて架橋されます[7月のレデントーレ教会のお祭りのための舟の浮橋では一時期通行止めになります]。

参詣のために渡橋してサン・グレゴーリオ通り(Cl.S.Gregorio)に出ると道が狭いので、一方通行になったように人の動きはサルーテ教会に向かう人だけで、逆流の人は見かけませんでした。

教会前には奉納のローソクを売っている屋台が並んでおり、善男善女はこれを購ってお参りします。階段を上って教会内部へ入ります。

祭壇前から4分の3くらいまで人でぎっしりです。その時偶然にリアルト市場でいつも買っている八百屋さんが奥さんと居るのにバッタリ出会い、挨拶しました。ヴェネツィアとはことほど左様に狭い町だということでしょうか。ミサを見学している内にだんだん前へ押しやられ、結局主祭壇左脇から教会背後に押し出されてしまいました。

人の波の動きに従って歩いていくとサルーテ橋(P.de la Salute)を渡って、広いカテクーメニ埋立通り(Rio Tera` del Catecumeni)からサローニ埋立通り(Rio Tera` ai Saloni)にかけて、子供達やドルチェ好き向けのお菓子屋さんが軒(テント)を連ねて沢山の人が群れています。運河を埋め立てた通りなので、屋台が両側に並ぶほど広い通りです。
サルーテ教会の祭りの屋台(1)サルーテ教会の祭りの屋台(2)その時、語学学校で同クラスの正義感溢れる、屈託ないアメリカ青年ニックが女友達と歩いていました。「チャオ !」と気軽に声を掛け合って別れました。こんな日はアパートに帰る前に、お祝いの赤いヴィン・サントを飲んで帰らねばなりません。

このお祭りの日には、家庭あるいは食堂でヴェネツィア人は《カストラディーナ(castradina)》という料理を食べるのだそうです。ボエーリオの『ヴェネツィア語-伊語辞典』は次のように書いています。
「カストラディーナ=去勢した羊肉を塩漬け、燻製にした物。特にスキアヴォーニ(ダルマツィア人)が販売した。」

[2012.08.18日にもう少し詳しくカストラディーナについて書きました。]
  1. 2009/11/21(土) 00:03:13|
  2. ヴェネツィアの街
  3. | コメント:2
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コメント

こんばんは! ああ、デッラ・サルーテのお祭りの記事を拝見して、そうだ、そうだった、とふと今日は何日だったっけ?と思い出す始末で、もう既に過ぎておりました!! mamma mia! 
ええ、あの日は大変な参拝客ですねぇ。 橋の上で、我々も夫の昔の同僚と出会ったことがあります。 やはり皆さん参拝に出かけるというのか、おっしゃる通り、ヴェネツィアの地元の人間は少ないのかもしれません。
先日のTVニュースでは、地元民が6万人になったとかで、ヴェネツィアのお葬式をした、様子が映りました。
  1. 2009/11/24(火) 22:54:45 |
  2. URL |
  3. shinkai #-
  4. [ 編集 ]

コメント、有難うございます。
最近読んだ統計で、この10年強のヴェネツィアの人口の移り変わりを知りました。
1996年=本島69,906人、メストレ等を含む周辺地域=269,459人、2006年=
本島62,027, メストレ等周辺=269,261、2009年=本島59,992、メストレ等
周辺=271,004、だそうです。確実に人口が減少しているようです。
私が初めて語学学校に通った時(2000年)、アパートで鍋の取っ手のねじがなく
なり、そのネジ屋さんを探して歩きました。その時はありましたが、今はもうその
店はありません。ヴェネツィア在住の人が、増えるのは土産物屋ばかりと嘆くの
がよく分かります。
ヴェネツィア生まれの友人のファビアーナ一家は、しばらくメストレに住んで
いましたが、現在はヴェネツィアに住んでいます。そして有難いことに
ヴェネツィアを私どもに発信して呉れています。
shinkai さんに若冲の絵を見て頂きたくて、追加しました。
  1. 2009/11/26(木) 10:04:49 |
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  3. ペッシェクルード #/plE8HKU
  4. [ 編集 ]

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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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