イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

Ca' Dario(ダーリオ館)(2)

「ジョヴァンニ・ダーリオはヴェネツィア貴族ではなかったが、1400年代、大運河に面して邸館を所持出来た数少ない一人であった。共和国秘書官階級[市民階級]に属していた。
ダーリオ7年間の戦争の後1479年[1月29日のこと]、セレニッシマ共和国はオスマン・トルコ皇帝(Imperatore dei turchi ottomani)メフメット2世(Maometto II)との和平交渉という重要な使命を彼に委ねていた。ジョヴァンニ・ダーリオは、大変な損失を伴う結果となったにも拘らず、ヴェネツィアを満足さすに足る条約を締結することが出来た。

スルタンは彼に黄金製の織物の衣装を3着贈物にしたし、セレニッシマは高額の報酬とノヴェンタ・パドヴァーナ[パードヴァ東部のノヴェンタ]に土地を与えて彼に報いた。ジョヴァンニが受けたこれらの褒賞は、外交交渉が成功裏に終わったことだけでなく、彼によってオスマン帝国との間に公然と開かれた関係が創始されたことがそれに値したのであった。

メフメット2世が自分の肖像画を描かせるためにイスタンブール[1453年コンスタンティノポリス(英語コンスタンティノープル、伊語コスタンティノーポリ)がこのように改名され、帝国の首都となった]の彼の宮廷に、画家ジェンティーレ・ベッリーニを招くことになった[1479.08.01のこと]のも、彼の尽力のお陰であった[その時の絵の1点が、現在ロンドン・ナショナル・ギャラリーに収蔵されている]。

共和国から受けた高額報酬によって、ジョヴァンニは大運河に顔を向けるゴシック様式の建造物を獲得することになった。その建物には、当時の時代趣味に則った設計による新様式のファサードを纏わせた。その設計は恐らく、ピエートロ・ロンバルドに依頼され、1487年工事は開始された。

ファサードは色大理石を潤沢に使用し、通常のゴンドラ[約10メートル]よりも狭く、洗練された装飾はアーチや古典的輪郭を持つ形のように、ルネサンスの建築語法と考えられる要素と溶け合っている。

建築の初期段階、館の所有者は下の階の大理石に≪Urbis Genio Joannes Darius≫(当市の天才に、ジョヴァンニ・ダーリオ)という銘刻を刻み込ませた。その銘刻をジョン・ラスキンは1800年代前半に一新させた。

1484年ヴェネツィア政庁は今や70歳台のジョヴァンニ・ダーリオをトルコとの交渉のために再度派遣することを決定した。今回はメフメットの息子バヤジット(Bayezid)2世が相手だった。その結果、満足の印に元老院は十人委員会の秘書に彼を任命し、その上彼の娘マリエッタの婚資までも提供したのだった。

ジョヴァンニ没後、邸宅はヴィンチェンツォ・バルバロの花嫁となった娘の手に移り、その後19世紀初頭までその古い貴族のバルバロ家の所有が続いた。

1838~42年、ラスキンの友人だった Rawdon Lubbock Brown の所属となった。彼はアルメニア人宝石商 Abdoll 侯爵からこの建物を手に入れたのだった。ロードンは27歳の時ヴェネツィアに到来し、終生この地を去らなかった。彼は古文書学者で、セレニッシマの国立古文書館にある、イギリス史関連のあらゆる史料の筆写の仕事を託されていた。とりわけ1500年代の日記を残したマリーン・サヌードについての研究を出版したのは重要である。

館は修復後、メッテルニヒ公妃の兄弟、ジークムント・ツィヒー公爵に売却された。数年後には新しい所有者ラ・ボーム公爵夫人のお陰で、カ・ダーリオは特にアンリ・ド・レニエを筆頭に彼女のサロンに足繁く集うフランス文学者達のために有名になった。

時とともに変わる持ち主が痛ましいエピソードの犠牲者となった。館に不吉な噂が立ったのである。噂だけでなく実際の持ち主にも生じたのであるが、それは未だに真相が判明していない。ガルディーニ家はカ・ダーリオの呪いから逃れられなかったのである。」
[旅行ガイドに寄りますと、企業家ラウル・ガルディーニは1993年夏、自殺を遂げたのだそうです]。
  ――Raffaella Russo著『Palazzi di Venezia(ヴェネツィアの館)』(Arsenale Editrice、1998年3月刊行)より
  1. 2009/12/05(土) 00:02:45|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
  3. | コメント:2
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コメント

こんにちは!  このダリオ館には以前から不吉な噂があった、というのに、ああそうだったのか、という想いがあります。
タンジェントーポリ、という名で呼ばれたクラクシ首相の贈収賄が取り沙汰され始めた時、当時このダリオ館の持ち主であった、メストレ・マルゲーラの化学工場エミケムの社長が自殺しました。 それで、クラクシから現在のベルルスコーニに至る筋の解明がうやむやになったのでした。

ジョヴァンニ・ダーリオがイスタンヴールでセレニッシマの秘書官をしていた、というのは始めて知りましたが、ベッリーニがかの国を訪問し、スルタンの肖像を描き気に入られた事、(これの実物を一度見たいものです、素晴らしい絵!)、でもスルタンはベッリーニの描く斬首の絵が真実ではないといい、囚人を引き出し実際に斬首させて見せたとか!

あの館をウッディ・アレンがネ、なるほどです。 あの館の裏の橋を、ジュリア・ロバーツが走って渡るシーンを彼の映画で撮ったとか、TVニュースで見た事があります。
  1. 2009/12/06(日) 22:51:11 |
  2. URL |
  3. shinkai #-
  4. [ 編集 ]

コメント、有難うございました。
クラクシ首相とベルルスコーニ間のtangentopoli にダーリオ館が介在していた話
は初めて知りました。スルタンがベッリーニに断首の実際のシーンを見せた話は
どこかで読んだ記憶があります。
ウッディ・アレンが『世界中がアイ・ラヴ・ユー』の中で、ジュリア・ロバーツ
とジョギング中に出会うシーンは記憶にありましたが、ダーリオ館のバルバロ
広場のあの特徴のある橋の上でとまでは、知りませんでした。また『旅情』の中で
ヘップバーンと家なき子の少年が出会うのもこの同じ橋の上でです。少年が石の
欄干の上を90度曲がって滑り降りてくるように描かれていました。
  1. 2009/12/07(月) 15:49:44 |
  2. URL |
  3. ペッシェクルード #/plE8HKU
  4. [ 編集 ]

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Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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