イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――サンドとミュッセ(2)

サンドとミュッセの恋の逃避行は、マルセイユまでは乗合馬車と船、マルセイユからは船でイオニア海を渡りました。ピーザで下船した時、ローマへ行くかヴェネツィアに行くかコインを床に投げて決めたようです。10度もヴェネツィア行きの表だったそうです。

フィレンツェを経てヴェネツィアまで馬車の旅。そして本土側からヴェネツィアまでは沢山の荷物をゴンドラに積み込んで、ラグーナを渡りました。

「スキアヴォーニの岸のとある建物の正面、大理石の階段の下でゴンドラが停まる。各階のオジーヴ[交差リブ]形の窓が光を放っている。やっと旅の終着点、昔のナーニ宮殿のアルベルゴ・レアーレ、別名ダニエリ・ホテル(1822年ニエルのジュゼッペとかいう男が買い取った)に到着した。

当時、ヴェネツィアを訪れる富裕な外国人を引きつけるに足る、快適で、ヨーロッパにその名を知られたホテルである。この時代の案内書は、イタリアで最良のホテルの一つとして紹介している。≪豪華な家具が備えつけられ、フォルテ・ピアノさえ置かれているアパルトマンの美しさに、この上なく魅力的な眺望が加わる。必要なものがすべて揃えられたゴンドラ、軟水および塩水の入浴施設を外国人は随時、利用できる。≫」
  ――『赤く染まるヴェネツィア――サンドとミュッセの愛』(ベルナデット・ショヴロン著、持田明子訳)より

ジョルジュが、先ず病に倒れ、回復するや今度はアルフレッドが病に苦しみます。その間彼の医師ピエートロ・パジェッロとジョルジュの恋が始まります。結局アルフレッドは聾桟敷に追いやられた形で、静養のために本国へ帰ることになりました。彼女とピエートロとの恋はどのようなものであったのでしょうか。

アルフレッドが帰国した後、彼女はヴェネツィアについて書いています。
「確かにこれまでヴェネツィアの空の美しさや夜の持つ無上の喜びを褒めそやした者はいない。美しい夜、ラグーナ(潟)は実に穏やかで、水面に映る星々が震えることもない。ラグーナの真んなかにいると、水があまりにも青く、平らかであるから、もはや水平線を見分けることができず、水と空が一枚の紺青のヴェールとなり、夢想が吸いこまれ、眠りに落ちる。

大気があまりに澄みきって、清らかであるから、北方のわがフランスの空に見ることのできる星の五十万倍もの星が空にある。私がここで見た星の夜は、星々の銀白が天空の紺青をしのいでいるほどであった。それはパリの夜空の月のように輝く、無数のダイヤモンドであった。パリで見える月を悪く言いたいのではない。それは青ざめた美しさであり、その物悲しさはおそらくこの地の星月夜以上に知性に語りかけるであろう。

わが国の生暖かい地方の靄に包まれた夜の魅力は、私は誰よりも楽しんだ、そして、今その魅力を誰よりも否認したい気になっている。ここでは、自然の及ぼす影響がより強烈であり、おそらくはいささか度を越して精神を封じこめている。それは思考を眠らせ、心をかきたて、感覚を支配する。天才でない限り、この官能をそそる夜の間に詩作しようなどと考えてはならない。やるべきことは愛することか眠ることだ。――『ある旅人の手紙』第二信」
  ――『赤く染まるヴェネツィア――サンドとミュッセの愛』より

サンドはミュッセと完全な別離をしますが、2人の間には文通は続きます(一方彼女はパジェロをパリまで連れていきます)。そうした中で、ミュッセは『世紀児の告白』(1836年)で2人をブリジットとオクターヴとして《世紀の恋》を書きました。

1836年末サンドはリストの紹介でショパンを知り、'37年末頃から2人の仲は深まり、マヨルカ島に行ったり、またアノンでのショパンとの生活が10年は続いたそうです。
その間――
「1842年、ジョルジュ・サンドのもっとも長編であり、もっとも推敲を重ねた小説『コンシュエロ』が発表される。この時代の偉大な歌姫ポリーヌ・ヴィアルドの人物描写をとおして謳い上げた音楽への壮大な賛歌であると同時に、ヴェネツィアへの感動的な賛歌である。

第一部の舞台は1742年から1755年にかけてのヴェネツィアであり、ジョルジュは才能と深い学識から、この時代をその芸術的豊かさをとおして再現することができた。……
……『コンシュエロ』はたちまち、思いがけないほどの大成功を収める。」
  ――『赤く染まるヴェネツィア――サンドとミュッセの愛』より
『彼女と彼』そして彼女もまた、ミュッセとの間を総括する意味でか、『彼女と彼』(1859年――川崎竹一訳、岩波文庫、昭和25年5月5日発行)でヴェネツィアでのミュッセとの愛を、テレーズとローランと名を変えて語りました。
[追記=2010.12.11日に歌姫コンシュエロについて書きました。]
  1. 2009/12/19(土) 00:05:51|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
  3. | コメント:4
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コメント

ペさん、こんにちは。
恥ずかしながらジョルジュ・サンドの作品は何も読んだことがなく、、ショパンとのマヨルカ島での逃避行ぐらいしか知りませんでしたが、今回の二回の記事でショパンより以前のミュッセとの生活がよく分かりました。サンドのような特異なキャラクターを持つ女性はその後現れていないのでしょうか。私の狭い見聞では思いつきません。
  1. 2009/12/19(土) 17:27:45 |
  2. URL |
  3. September30 #-
  4. [ 編集 ]

september 30 さん、コメント有難うございました。
二人の関係は映画『年下のひと』で知ったのですが、彼らの関係については
この本『赤く染まるヴェネツィア――サンドとミュッセの愛』で詳しく知ったこと
でした。
あなたの写真の刺激もあって、突然パリ行きを決め、パリに10日ほど
滞在し、今日帰って来ました。初めてのパリでした。古い街路を探して歩きました
が、ヴェネツィアとは違った意味で大変気に入りました。サン・ジェルマン・デ・プレ
が最も気にいった界隈でした。
  1. 2009/12/27(日) 10:56:37 |
  2. URL |
  3. ペッシェクルード #/plE8HKU
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おおおーー とうとう行きましたね、パリに。ペさんの目から見たパリはどんな街だったのか、私は興味しんしんです。しかし、イタリアのブログにパリを書くわけにもゆかないでしょうね。
  1. 2009/12/28(月) 18:29:14 |
  2. URL |
  3. September30 #-
  4. [ 編集 ]

september 30さん、コメント有難うございます。
あなたの仏国の写真など見ている内、だんだん萌してきたものがありました。昔
マンボ先生のヴェルレーヌの「レ・サングロ・ロン・デ・ヴィオロン……」を聞いて
以来、パリは詩人の町でした。サン・ジェルマンやサン・ミシェルを歩きながら、
かつてランボーやヴェルレーヌが歩いた巷を想像しました。パリに残る古い街路を
探して歩きました。
ヴェネツィア人が残した痕跡の書店の写真を撮ってきましたので、その内パリの
ヴェネツィアを書きたいと思います。
  1. 2009/12/30(水) 10:45:29 |
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  3. ペッシェクルード #/plE8HKU
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Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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