イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

Daniele Manin(M)(ダニエーレ・マニーン―1804.05.13~1857.09.22)

1847年マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』を起草し、翌48年2月出版されたのが機になったのか、この年はヨーロッパ各地、ベルリン、ブダペスト、パリ、ウィーン、プラハ等で革命の火の手が上がりました。イタリアでもミラーノでは、ウィーン蜂起を耳にして、3月にオーストリアの支配に対しての反乱が起こります。

ヴェネツィアも例外ではなかったのです。1848年3月16日、オーストリアの管轄下にあるヴェネツィアの官憲に逮捕されたダニエーレ・マニーンとニッコロ・トンマゼーオ(Niccolo` Tommaseo)の釈放を要求して始まったヴェネツィア人の《革命運動》は、3月22日、アルセナーレでの動乱で極となり、ハプスブルク帝国の支配を断ち切り、再び共和国の形を取り戻すことになります。
1848年ヴェネツィア革命展1848年ヴェネツィア革命[来日され、一ツ橋の如水会館で講演された哲学者のマッシモ・カッチャーリさん(ヴェネツィア市長もされた)が“La Nuova”紙へ寄稿されたもの] 
マニーンは新共和国の大統領となり、トンマゼーオ(1802~74)は文化・教育大臣となります。残念ながら、この新しい共和国は1年ほどで潰えますが、彼らが作った新共和国の思い出はヴェネツィアの街に残されています[マニーンはパリに亡命し1857年没]。(《ラ・ヌオーヴァ紙》特集記事)

マニーンの銅像(1875造立)がマニーン広場に立っています。銅像の目線の先には、サン・ルーカ運河(Rio de S.Luca)に面して建つ、彼が生活を送った家があります(IN QUESTA CASA ABITAVA DANIELE MANIN QUANDO IN PATRIA INIZIO` LA LIBERTA` PRENUNZIATRICE……)。
ダニエーレ・マニーン像サン・パテルニアーンの地面に置かれた地図[左は長年住んだ我が家を見るダニエーレ・マニーン像、右は像の下に置かれた、旧サン・パテルニアーンの地図。]
元々この広場にはサン・パテルニアーン教会が建っていたそうで、1810年この教区が廃止され、教会は倉庫に転用されますが、1871年には古い鐘楼共々壊され、更地になります。彼の銅像の下に、教会ありし頃の地図が敷石に刻んであります。そしてその呼称も、サン・ルーカ広場に通じるサン・パテルニアーン埋立て通り(Rio Tera` S.Paternian)やマニーン家の入口のあるサン・パテルニアーン通り(Calle S.Paternian)が残されています。

サン・パテルニアーン通り近辺は、マニーンが弁護士だったこともあるのか、あるいは近くに控訴裁判所(Corte d'Appello)がある故なのか弁護士事務所の多い地区なのだそうです。実際歩いてみると、私の眼には骨董屋さんのショーウィンドーが結構目に付きました。

サン・ポーロ区のストゥーア小広場(Campiello de la Stua)に部屋を借りて、サンタ・マルゲリータ広場の語学学校に通っていた時、道順の脇道全てを探検しようと手当たり次第に入ってみました。そのために分かったのですが、マニーンの生まれた生家はアルド・マヌーツィオの印刷所のあったリーオ・テラ・セコンドからの脇道、アストーリ通り(Ramo Astori)のどん詰まりに、彼が生まれたことを示す碑板が掲げてありました(NEL XIII MDCCCIV QUI NAQUE DANIELE MANIN……)。2011.12.10日に書いたドルフィーン・マニーン館(2)に写真を載せました。

サン・モイゼ教会前のサン・モイゼ橋(Ponte S.Moise`)から西に向かう3月22日大通り(Calle Larga XXII Marzo)は、この《革命運動》の頂点となった日を記念としている筈です。そしてサント・ステーファノ(S.Stefano)広場に立つニッコロ・トンマゼーオの銅像(ミラーノの彫刻家Francesco Barzaghiが1882年建立)は、目線すぐ前のスペツィエール通り(Calle del Spezier)を通して、その先の3月22日大通りを睨んでいるのかも知れません。

作家だった彼の銅像の背後のお尻の下に積まれた本をヴェネツィアの人々は、cagalibri(くそ本)などと冗談めかして言っています。こういう言い方は、自分を卑下したように言い勝ちの日本人的感性に何か似ているような気もしますし、口の悪いヴェネツィアーニ的とも取れますが。
[ミラーノの彫刻家フランチェスコ・バルザーギ作のこの彫刻に不満のヴェネツィア人が、トンマゼーオの背後に積まれた本を《くそ本》と腐しているという説も聞きました。] 
  1. 2007/11/22(木) 15:55:13|
  2. | コメント:0
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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