イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

イタリアと日本との関わり(1)――フェリーチェ・ベアート

日本の土を踏んだ最初のイタリア人は、やはり天正時代ローマに伊東マンショら四少年使節を送り出したアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1539.02.15~1606.01.20)でしょうか。彼はキエーティに生まれ、パードヴァの《ボー》で学び、東インド巡察師として1579(天正7)年7月25日に来日しました[彼については『巡察師ヴァリニャーノと日本』(ヴィットリオ・ヴォルピ著、原田和夫訳、一藝社、2008年7月10日発行)が詳しいです]。
巡察師ヴァリニャーノと日本続いて、伊達政宗の命でスペインに向かった支倉常長のお付きの者として、グレゴーリオ・マティーアスは彼のお供で渡欧(スペインからイタリアへ)し、ローマに行った帰途時、体の調子を崩してジェーノヴァで待つ彼の代理で、ヴェネツィア共和国への贈答品を持参し、敬意の表明に行きました。ヴェネツィア出身の宣教師だったそうです。
Da Sendai a Roma[『仙台からローマへ』(Office Move刊、支倉常長の資料本)] 1643年に来日したパレルモ出身の宣教師ジュゼッペ・キアーラ(1602~1685.08.24)は捕らえられ、江戸に送られキリスト教を棄教しました。転伴天連(ころびバテレン)として宗門改役の監視の下、岡本三右衛門の名前と妻を貰い、十人扶持を給され、小石川の切支丹屋敷を出ることは許されず、83歳まで天寿を全う(?)したそうです(遠藤周作の『沈黙』のモデルの一人、ロドリゴ神父)。

1708年禁教令下の日本に渡来した最後の宣教師、シチーリア生まれのジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ(1668~1715.11.27)は直ぐに拘束されて江戸へ送られ、小石川切支丹屋敷に幽閉されました。彼の尋問から新井白石が『西洋紀聞』や『采覧異言』を書いたことは歴史に知られています。
切支丹屋敷跡の説明書[地下鉄茗荷谷駅近くの文京区小日向一丁目24番地の切支丹屋敷跡の記念碑傍に左の説明書が置いてありました]
明治時代、日本政府がイタリアに文化・芸術面で教えを仰ぎ、ヴィンチェンツォ・ラグーザ、エドアルド・キオッソーネ、アントーニオ・フォンタネージ、ジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・カッペッレッティ等を《御雇外国人》として招聘したことはよく知られています。

この時代、イタリアでは蚕の病気のためイタリア養蚕業が大問題でした。来日し、内陸まで入り込んで日本の養蚕業の中心地を探し出し、健康な蚕卵紙を購入してイタリアに持ち帰り、最初の経済関係を築いたのはロンバルディーア州の蚕卵業者だったそうです。以来多くの蚕卵業者が日本の土を踏んだと言います。そんな歴史的背景を元に、アレッサンドロ・バリッコが『絹』(鈴木昭裕訳、白水社、1997年5月発行)という小説を書いています。

その明治時代、岩倉具視らが米欧を回覧した時、アレッサンドロ・フェ・ドスティアーニ駐日イタリア全権公使がイタリアでは彼らに付き添ったそうですが、その後継公使となったラッファエーレ・ウリッセ・バルボラーニが1877~81年の公使の任務を終えて帰国した時に、日本のお土産として持ち帰った、日本全国に及ぶ名所旧跡等を当時の写真技術で写した写真集がイタリアに残されていました。それが『大日本全国名所一覧――イタリア公使秘蔵の明治写真帖』(監修マリサ・ディ・ルッソ、石黒敬章、平凡社、2001年6月25日発行)として刊行されています。
大日本全国名所一覧これは明治初期の北海道から小笠原諸島までを、1268枚の各地の景観や建物等の写真で日本全国を網羅したもので、大変貴重なものが数多く含まれているようです。この写真集は単なるスーヴニールの領域を超え、バルボラーニ公使がどういう理由でこれを手にし、持ち帰ったのか判然とはしないようです。私はこの本のディ・ルッソ氏の解説で、当時来日していた2人のイタリア人写真家、フェリーチェ・ベアートとアドルフォ・ファルサーリの名前を知りました(この写真集にはこの2人の写真は含まれていないそうです)。

フェリーチェ・ベアート(1834~1908?)は1863年に来日した写真家で、横浜を栄えある写真の町(下岡蓮杖らも活動していました)に活気付けた功労者の一人だそうです。また長崎にも何度か訪れ、現在NHKテレビの大河ドラマ『竜馬伝』が放映中ですが、その主人公坂本竜馬や高杉晋作らの写真を残した上野彦馬とも交流があり、日本の写真界を牽引した人物でした。

ベアートが誕生したのは、ヴェネツィア共和国時代はヴェネツィア領だったコルフ島(現ギリシアのケルキラ島)で、彼が生まれた1834年当時は、ナポレオン戦争後のウィーン会議(1814-15年――映画『会議は踊る』の舞台)の結果、イギリスの統治下に置かれることになり、イギリス領だったので、彼の両親はヴェネツィア人だったのですが、日本では英語式にフェリックス・ベアトと呼称されることが多いようです。

在日イタリア商工会議所発行機関誌『Viste dalla Camera』の「Gennaio/Febbraio 2000」の「Anno 2 Numero 1」にリーア・ベレッタ(Lia Beretta)氏が『Obiettivo sul Giappone Meiji: Felice Beato(日本の明治時代にレンズを向けて――フェリーチェ・ベアート)』と題したエッセーを書いていらっしゃいますのを参考にさせて頂き、彼について記して見ます。
『フェリーチェ・ベアート』(フェデリーコ・モッタ出版刊)[イタリア刊『フェリーチェ・ベアート』の写真集] 1970年代末、ニューヨークで『日本の写真1854~1905』という写真展が開かれ、その図録と共にフェリックス・ベアトの写真が出現し、また一方で《フェリーチェ・アントーニオ・ベアート》の写真とされる物も出回っていたそうです。

次第に判明してきたことは、フェリーチェにはアントーニオという兄がおり、2人とも写真家で、片やアジアで、片やエジプトでの同時期の写真が発表され、当時の交通手段では無理なことから謎であったようです。ようやく忘れ去られていた写真家の姿にフォーカスが絞り込まれるようになり、現在では彼は19世紀のアジアで活躍した最も偉大な写真家と考えられているそうです。

彼の写真家としてのキャリアは、妹マリーアの夫で写真家のジェイムズ・ロバートソンと共に赴いた1855年のクリミア戦争に始まるのだそうです。

1858年はセポイの乱のドキュメント、60年にはイギリス軍の後を追い、中国に移動、第二次アヘン戦争の英仏軍の公式カメラマンとなります。

アヘン戦争が終結すると、一緒に仕事をしていたジャーナリスト、チャールズ・ワーグマンが日本に渡ったその後を追い、横浜に到着、ワーグマンとの横浜でのコラボレーションが始まります。

絵心のあるワーグマンや日本の職人達の助けで、彼は手彩色のカラー写真を日本に導入しました。それはヨーロッパでは知られていた技法でしたが、普及はしていませんでした。日本では浮世絵の技術に長けた職人達の能力のお陰もあって、大成功を収めたそうです。

1866年、横浜大火で倉庫を全焼し、一からの出直しとなりました。1877年自分はビジネスの才ありと誤解し、写真館をオ-ストリア人ライムント・フォン・シュティルフリート男爵(日本では英語風にスチルフリートと書かれたりします)に譲ってしまいます。そして84年にはビジネスは立ち行かなくなり、無一文で日本を後にしたようです。

1910年以前、ビルマ(現ミャンマー)で亡くなったのではないかと言われています。彼の写真は次のサイトでどうぞ。《フェリックス・ベアト。次のブログヴェネツィアと日本との関係(1)(2)、そして天正のローマ使節(1)~(2)天正のローマ使節(3)~(5)も参考までに。

追記: 2012.03.24日、フェリーチェ・ベアト展を見に行ったことを書きましたが、その図録によればこの時のデータが相当、更新されていることが分かりました[ヴェネツィア生まれ等]。フェリーチェ・ベアートもご覧下さい。
  1. 2010/02/06(土) 00:00:36|
  2. ヴェネツィアの写真
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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