イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

イタリアと日本の関わり(2)――アドルフォ・ファルサーリ

アドルフォ・ファルサーリ(1841~98)が日本に姿を見せたのは、フェリーチェ・ベアートから10年後の1873年のことで、それもやはり横浜でした。彼は勉強家で写真の技術を書物に学び、来日10年後の1883年に横浜で写真館を開きました。

その場所は、フェリーチェ・ベアートの写場を引き継いだオーストリア人写真家ライムント・フォン・シュティルフリート男爵(英語風にレイモンド・フォン・スティルフリートとも)、そして彼とヘルマン・アンデルセンの共同経営の後、ライムントの弟フランツのスタジオになっていた場所を譲り受けたものでした。
アドルフォ・ファルサーリ[《アドルフォ・ファルサーリ写真展》が2013.02.23~03.23日、イタリア文化会館で開催。彼の写真は写真展資料から。2013.02.11日追記] 在日イタリア商工会議所発行機関誌『Viste dalla Camera』の“Marzo/Aprile 2000”の“Anno 2 Numero 2”にリーア・ベレッタさんが《明治時代にレンズを向けて(2)――アドルフォ・ファルサーリ(Adolfo Farsari)》と題して、前回の続編を執筆しておられますので参考にさせて頂き、アドルフォの事を書いてみます。

アドルフォはヴェネツィアの北西、ミラーノに向かって60km 程の所にあるヴェーネト州のヴィチェンツァの町に生を享けました。この町は隣のパードヴァ生まれのルネサンス時代の大建築家アンドレーア・パッラーディオが定住し、彼の設計の建物が著名で、かつ旧ヴェネツィア共和国領(現ヴェーネト州)には、彼の手になるものが数多く残存しているため、以前イタリア語の先生にヴェーネトを旅すると言った時、「あなたは“パッラーディオの旅 gita palladiana”をするのか」と言われたことがありました。

アドルフはモーデナ陸軍士官学校に通った後、ナーポリでイタリア陸軍に入隊しましたが、借金が出来たため、家族に無断でアメリカへ渡航しました。米国では北軍に入隊し、南北戦争終了まで闘いました。その後ニューヨークの小金持ちの未亡人と結婚し、子供も生まれ、父親にはアメリカ生活は順調だと手紙に書いたりしているそうです。

その後1867年から音信不通になり、両親は死んだものと諦めていたようです。73年に所在が判明した場所は横浜でした。そして上記のフランツ・フォン・シュティルフリート男爵の写真館を全て譲り受け、写真家としての活動が始まります。

二度の火災で落胆のどん底に沈みましたが、商売は順調に進展し、80年代には写真に手彩色で描く技術を個人的に教えた職人を40人も抱える程の写真館に発展したのでした。

彼の写真の色には現在でも輝きがあり、その写真は着色の質の高さで直ぐそれと分かるものだと言われているそうです。彼自身は外国人旅行者に売る日本の土産写真を増やそうと、日本中を旅して回ったと言います。約100枚の感光板の在庫を抱え、受注で仕事をし、彼のために働く職人が作った漆の表紙のアルバムとして写真を製本したのです。

1887年ヴィチェンツァ時代に親交のあったイタリア海軍将校が横浜港に上陸しての出会いが切っ掛けとなり、ヴィチェンツァの家族との書簡のやり取りが再開し、姉のエンマとの密な連絡が続くことになりました。日本での仕事の事、日本の事、日本人の事、横浜での生活の事等が事細かに書き送られたのでした。

仕事はうまく行っていましたが、横浜での日本人写真家との競争は熾烈で、80年代、横浜に残留した外国人写真家は彼が唯一になるという状況でした。彼の成功は自らが発展させた手描きの着彩技術、誰も真似の出来ない技術のお陰でした。

1889年横浜を通り掛かった Rudyard Kipling という人はインドの新聞にファルサーリの事を書いているそうです。「最高の写真はサイゴンからアメリカに至るまで有名なファルサーリ商会で見付かる。ファルサーリは感じのいい、風変わりな、芸術家魂を持った人で、その作品の質のためにお金を払わねばならないのだが、彼の商品は払うだけの価値がある。通常彩色された写真は大抵の場合、酷いものだが、ファルサーリの彩色はその仕上がりがとてもよく、この素晴らしい国の光のトーンを蘇らせている。……」

彼は姉に帰国すると書きましたが、娘の《きく》だけを連れて帰ることは黙していたので、家族は彼の娘を見た時大変喫驚したと言います。再度日本に帰国するつもりはあったのかどうか、健康状態不調のまま、1898年57歳でヴィチェンツァ郊外で亡くなったということです。

アドルフォ・ファルサーリの写真については次のサイトでどうぞ: アドルフォ・ファルサーリ

話は変わりますが、1915(大正4)年ナーポリの国立東洋語学校(後のナーポリ東洋語大学)の日本語教師となった下位春吉という先生がいました。在伊中、第一次世界大戦に日本人としてイタリア軍に義勇兵として従軍し、最前線の勇猛突撃隊[グラッパでの塹壕戦は『戦場の一年』(エミリオ・ルッス著、柴野均訳、白水社、2001年7月22日発行)が詳しい]でガブリエーレ・ダンヌンツィオと知り合い、《塹壕の友》となったそうです。

戦後春吉は、ダンヌンツィオに日本への飛行を持ち掛けました。ダンヌンツィオはその気になり、準備万端が整い、1919(大正8)年7月先発隊のフェラインとアティエッロが飛び立ち、東京に無事着地、ヨーロッパと日本間の空路を初めて開拓したのですが、ダンヌンツィオとの飛行は、出発間際に中止されてしまいました(irredentismo の後遺症があったようです)。

そのお返しの意味があったのでしょうか、1925(大正14)年7月25日、朝日新聞社の初の訪欧飛行機《初風》《東風》の2機が日本を飛び立ち、同年10月27日、初めてヨーロッパの目的地ローマに着陸しました。

[追記=フェラインとアティエッロの記事について、名前や年代、その他に誤りがあるかもしれません。次のサイトもご参考までに第4回「神風号」までの航空史]

次のブログも参考までに。ヴェネツィアと日本との関係(1)(2)
2013.02.26日にアドルフォ・ファルサーリも書きました。
  1. 2010/02/13(土) 00:02:57|
  2. ヴェネツィアの写真
  3. | コメント:2
<<文学に表れたヴェネツィア――プラーテン | ホーム | イタリアと日本との関わり(1)――フェリーチェ・ベアート>>

コメント

こんにちは! この写真館というか、彩色写真のお話は大変興味深いですね。
この彩色写真というものは、第2次大戦後にもまだあったのですよね?

それにダヌンツィオの飛行、そうですか、日本への飛行を持ちかけたのは下井春吉と
いう人だと以前教えて頂きましたが、日本語学校の先生でしたか。
ガルダ湖畔のダヌンツィオの家の博物館には、飛行機もあるらしかったのですが、
これは見ませんでした。

下の記事にある、日本への蚕の卵を求めて1866年に来日し通商条約を結んだ使節の
日本見聞記を持っていますが、「イタリア使節の幕末見聞記・V.F.アルミニヨン 大久保昭男訳講談社学術文庫」
大変上等な見聞記で、当時の日本の様子をかなり細かく描いています。
ヴィチェンツァ近くのソンチーノの、養蚕をしているシニョーラを訪ねた時も、
逆にこの日本からの卵の持ち込みを教えて貰った事があります。

あの幕末の時代から、細々と日本とイタリアが繋がっていたのですね。
  1. 2010/02/15(月) 17:06:39 |
  2. URL |
  3. shinkai #-
  4. [ 編集 ]

shinkai さん、貴重な体験のコメント、有り難うございます。
印刷などにも「人着」という人の手でカラー印刷にする手法がありました。

初めて伊語を学び始めた時、買った辞書は『イタリア語小辞典』(下位英一編、
大学書林刊)でした。下位春吉の話を知った時、てっきりこの先生の弟と思ったの
でしたが、春吉は英一の義理の兄だそうです。私の伊語の先生の小林悟先生は、
あの人は東外大ではファシストの服装で授業をしていた、とおっしゃっていまし
た。義理の兄の影響を受けたのでしょうね。

V.F.アルミニヨン著『イタリア使節の幕末見聞記』(大久保昭男訳、講談社学術
文庫)には色々教えられました。天正の4少年使節のことはイタリアではよく
知られていたことが分かり、江戸時代、新井白石がシドッティを切支丹屋敷で
尋問した時、彼からその事を聞いたのでしょうか。『西洋紀聞』を読んでいない
ので分かりませんが、もしその事が書いてあれば、岩倉具視はこの書を熟読して
米欧を回覧したそうですから、ヴェネツィアで天正の4少年使節の挨拶状を発見
する何かを感じていたのかもしれない、等と空想します。
  1. 2010/02/16(火) 06:36:51 |
  2. URL |
  3. ペッシェクルード #/plE8HKU
  4. [ 編集 ]

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Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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