イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの劇場のこと

ヴェネツィアにおける公開オペラ劇場の嚆矢は、新サン・カッスィアーノ劇場で、1637年2月フランチェスコ・マネッリの『アンドローメダ』が、ヴェネツィア初の興行師となったベネデット・フェッラーリ・デッラ・ティオルバの手で、世界初の有料公開オペラとして上演された話は以前にも書きましたが、歌手達は全てサン・マルコ寺院の礼拝堂聖歌隊員で、その中には大聖堂楽長のクラウディオ・モンテヴェルディの息子のフランチェスコも含まれていたそうです。
新カッスィアーノ劇場前元新カッシアーノ劇場劇所への地図左、新サン・カッスィアーノ劇場前小広場。中央、サン・ポーロ地区のサン・ボルド(S.Boldo)運河に架かるフォルネール橋(Forner)から見える、中央に見える劇場通り(cl.del Teatro)最奥にその劇場小広場(Ct.del Teatro)があります。写真に見える運河前の門はゴンドラでアクセスする貴族達用の入場口だったかも知れません。劇場跡は現在、サン・カッスィアーノ(S.Cassan)運河を挟んで隣のアルブリッツィ館(Pal.Albrizzi)の庭園になっています。
[2011.02.22日地図追加――右の地図の中、右上隅近く緑の地帯左の1932番地の直ぐ下に、x印右にCt.de Ca' Bollani(ボッラーニ館小広場)があり、ここを中心にかつて遊郭がありました。すぐ前の運河に架かる橋P.de le Tette(乳房橋)を渡り、前方左上方に向かうCl.de l'Agnella(現在は伊語風にアニェッロ通りとも)を直進、直ぐ左折するCl.de la Comedia(コンメーディア通り)の突き当たりが世界初の公開オペラ劇場《新サン・カッスィアーノ劇場》(緑の2302番地)があった所です。] 

その当時の劇場の事情を、Aldo Bova 著『Venezia――I luoghi della musica』(1995)は概略以下のように述べています。

「セレニッシマは、演劇的出し物に何度となく反対表明をした(1508.12.29のラテン語による文言)。1581年には≪公共の場でコンメーディアを演ずる≫者へ度々出された禁令の一つに、違反者には≪鉄の足枷を嵌め、10ヶ月間ガレー船を漕がせる≫という罰則が定められた。

オペラ誕生以前にも、演劇的出し物には唄や楽器演奏、バレー等が挟まれたもので、時にはその上演が延々と演じられたこともあった。≪コンメーディアが8時間続いた≫(1555.02.20)。

オペラ・シーズンは三つあった。《カルネヴァーレ(謝肉祭)》は12月26日に始まり、カーニヴァル最終日(martedi` grasso)まで。《アッシェンスィオーネ(ヴェネツィア語Sensa――キリスト昇天祭)》は祭日当日から15日間(2週間)。《アウトゥンノ(秋)》は9~11月の間。これらの期間以外の日は公演の設営は固く禁じられていた。

1500年代末~1600年代半ばは、10軒ほどの劇場が開場していたが、1600年代末には20軒弱に増えていた。入場券は劇場外の《Malagon(ヴェネツィア語で大工・建具師の意)》で販売された。オーケストラは今日のように深く掘られたオーケストラ・ピットではなく、平土間席と同じレベルに置かれ、観客は楽器で舞台を見るのを妨げられ、文句が絶えなかった。≪オーケストラのティオルボ(大型リュート)群の棹がいつも場面を遮っている≫。

1600年代、オーケストラは通常5挺の弦楽器、2本のティオルボ、2台のクラヴィチェンバロから成っていた。1683年パリの新聞『Le Mercure galant』の特派員は書き送っている。オーケストラは≪幾つかのクラヴィチェンバロやスピネッタ、ティオルバ、ヴァイオリンから成り、完璧に調和したピッチで歌の伴奏をした≫と。

上演中と言えども、桟敷席は夕食やお楽しみのために使用された(結婚披露宴や大切な客のためには、1階席に大きなテーブルが用意された)。桟敷席の裏では賭場が開帳されていた。

上演中は舞台よりは格段に暗かったが、劇場内はずっと照明が施されていた(桟敷は蝋燭、舞台は灯油ランプ)。そして何者かが桟敷内部の親密さを悪用しないように、桟敷席の所有者にドアは開け放っておくように言ってあった。

娼婦は≪慎みのある上品な装い≫と仮面を外さないことが強制された。ゴンドリエーレは1階席の出入りは自由だった。総督は劇場に行くことは厳しく禁じられた。貴族はタバッロ(ヴェネツィア語tabaro――厚手の男用マント)とバウッタ(ヴェネツィア語bauta――黒マント付き仮面)の仮面装束での入場義務があった。この事はあらゆる誤解やいかがわしい事の原因になったに違いない。

1678年サン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ劇場で2人の貴族が、互いのことは何も知らずに喧嘩を始めた。1691年にはトッリズモンド・デッラ・トッレ伯爵は守衛に知られていなかったので、サン・ルーカ劇場への入場を厳しく阻止された。1785年、N.H.ゼーンとかいう人は、サン・モイゼ劇場の桟敷にタバッロとバウッタを外して入り、告訴された、ということもあった。

時には今日我々が慣れている完全な静寂が訪れることもあった。1667年サン・モイゼ劇場でズアーネ・カルドーンとかいう人が国家査問官に告発された。その理由は≪fue veduo con altri in quantita` gitare su la scena e contro li palchi le careghe et la robba che se vende al boteghin.(仲間と舞台に色々な物を投げたり、桟敷に椅子や売店で売っているような物を投げ付けるのを見られた)≫からであった。

1680年あるフランスの旅行者が、若い貴族の習慣に驚いて書いている。桟敷席から1階席の観客に唾を吐いたり、蝋燭の燃え止しを投げたりして面白がっている、と。また他の人は桟敷席裏側の廊下は≪蝋燭の燃え止しと小便の悪臭が非常に鼻に付いたと伝えている。

17~19世紀は歌手達芸術家に支払わない倒産した興行師と、桟敷席の代金を何年も払わないと告訴された貴族、劇場経営はしたいが破産した一家の間で、裁判所での係争がひっきりなしに生じている。≪オペラは楽しみであるというより、単なる商売道具と化していた≫(1650)。

1756年裁判所は、謝礼や給料を請求しても払って貰えない原作者、歌手、演奏家、バレリーナや使用人達が激しく非難し、涙ながらに嘆きを上げる、その多さに悲鳴を上げている。」
  ――アルド・ボーヴァ『ヴェネツィア――音楽の町』(1995)より
  1. 2010/03/13(土) 00:02:45|
  2. ヴェネツィアの劇場
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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