イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの劇場: サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ劇場

サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会(ヴェネツィア語ではサン・ザニポーロ教会とも――Giovanni=Zani、Paolo=Polo)正面前のカヴァッロ(Cavallo)橋を渡り、直ぐの狭い十字路を右に折れると、メンディカンティ(Mendicanti)運河に並行して、ヌオーヴェ海岸通り(Fondamenta Nove)まで長いテースタ(Testa)通りが続いています。

この通りの中程のパルード小広場(Corte del Paludo)に語学学校通学のためにアパートを借りたことがありました。テースタ通りドン詰まりにあるヌオーヴェ海岸通り直前に、現在は無人の廃墟と化したラルガ・ベルレンディス(Larga Berlendis)通りが左右に広がっていますが、かつてこの場所にサンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ劇場があったのだそうです。

Aldo Bova の『Venezia――I luoghi della Musica』はその歴史を次のように述べています。

「サンタ・マリーア・フォルモーザのグリマーニ家が、1635年頃建造し、39年にちょっと離れた場所に建て直した。開場公演はパーオロ・サクラーティの『デーリア祭(La Delia)』[Delia はデロス(Delo)島で5年ごとに催されたアポロン祭のこと]で始まった。

[劇場経営者としての貴族のグリマーニ家の名はしばしば登場しますが、そのグリマーニ館は、サンタ・マリーア・フォルモーザ(Campo S.Maria Formosa)広場に直接面してはいません。ジュッファ通り橋(P.de Ruga Giuffa)を渡り、直ぐの横町を左へ、グリマーニ通り(Rm.Grimani)のドン詰まり、サンタ・マリーア・フォルモーザ運河(Rio de S.M.Formosa)とサン・セヴェーロ(S.Severo)運河の交差した角地に位置します。1984年から25年程の修復の時を経て、ヴェネツィアには非常に珍しい貴族の建物内部の例として、現在電話等で予約すれば見学が可能です。一見に値する壮麗な物です。]
グリマーニ館天井を飾る天井画邸館内部のパースペクティヴ壁面装飾(1)室内の建築的佇まい天井装飾(1){正面玄関。天井を飾る絵画。部屋を結ぶパースペクティヴな流れ。壁面の装飾。部屋を結ぶ建築的佇まい。天井画。}

グリマーニ家はクラウディオ・モンテヴェルディ(M)、フランチェスコ・カヴァッリ(C)、アントーニオ・サルドーリオやジョヴァンニ・レグレンツィ等の協力を得た。(M)の作品は1639年と41年に、『アドーネ(Adone)』[アプロディーテーに愛された美青年アドーニス]と『エネーアとラヴィーニアの婚礼(Le Nozze d'Enea con Lavinia)』[アイネイアースにラティーヌス王は娘ラウィーニアを与える](これらの曲の楽譜は何も残っていない)、更に42年に『ポッペーアの戴冠(L'incoronazione di Popea)』[ネロ皇帝の妃となったポッペア](自筆譜がマルチャーナ図書館に保存されている)が上演された。

(M)の弟子だった(C)の作品としては1642~56年の間に12のオペラ作品が上演された。1654年にはヴェットール・グリマーニ師が無頼の仲間達とともに劇場を占拠したかどで告訴されている。

1658年1月11日フランチェスコ・ルーチョの『メドーロ(Medoro)』[ルドヴィーコ・アリオストの『狂乱のオルランド』の登場人物]が板に乗った。彼は頭に一撃を受けて、30歳の若さで同年の9月1日に死亡。

1663年町で最上の劇場と評価された。≪サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ劇場ではカーニヴァル時に素晴らしい場面転換、威厳に満ちた目もあやな主人公達の登場、機械仕掛けの目も眩む飛行などを備えた音楽劇が演じられた≫。

≪通常光り輝く空、神聖なるもの、海、王宮、邸館、鬱蒼とした立木、森林、その他雅で楽しげなる外観を備えたものが観覧された。音楽はいつも洗練されており、町でも最上の声の持ち主が選ばれたし、ローマやドイツ、その他の地方から招かれて、衣装が豪華で愛らしい声の美人の歌唱は驚きと称賛をもたらすので、役になりきれる演技の出来る女性達が呼ばれた。≫

1665年にクラヴィチェンバロ奏者として雇われた一女性の記録がある(ヴェネツィアの劇場で演奏した女性音楽家についての情報は実に微々たるものである)。

1665年ピエートロ・アントーニオ・チェスティの『オロンテーア(L'Orontea)』[エジプトの女王オロンテーアは画家アリドーロを愛して結婚する]が上演される。

{他の資料では、ヴェネツィアで人気の高かったチェスティのヴェネツィアでの作品に、1649年『オロンテーア』、51年『恋するエルコレ(Ercole amante)』[エルコレはヘラクレスのこと]、66年『ティート(Tito)』[ローマ皇帝ティトゥス]、69年『ジェンセーリコ(Genserico)』[ヴァンダル王ガイセリック]等があったとあります。

一方、やはりモンテヴェルディに師事したと思われるフランチェスコ・カヴァッリも、他の資料では、1639年からサン・カッスィアーノ劇場を中心にオペラを発表し、この劇場では53年から上演していたとされます。

1655年『セルセ(Serse)』[BC.480年のペルシア王クセルクセス1世(ダレイオス1世の息子)]、56年『スタティーラ(Statira)』[ペルシア王ダリウス(ダレイオスとも呼称)の娘スタティーラ]、57年『アルテミージア(Artemisia)』[アルテミシアはアケメネス朝ペルシア支配下にあったカリア(古アナトリア地方)の太守だったマウソロス(Maussollos=伊語Mausolo―マーウゾロ or マウゾーロ)の妹であり妻でしたが、夫没後首都ハリカルナッソスに壮麗な廟(マウソレウム)を建てます。それが古代七不思議の一つになったと言われています]。その後はまたサン・カッスィアーノ劇場に戻ったそうです。}

1678年ジョヴァンニ・フランチェスコ・グロッシはカヴァッリの『シピオーネ・ラフリカーノ(Scipione l'Africano)』[アフリカでハンニバルを破り、勲功があったため大スキピオはアフリカヌスの尊称を得る]のシファーチェ役を歌い、成功を得た(97年エレオノーラ・フォルニ伯夫人の兄弟達に、嫉妬と復讐のために殺された)。

1699年劇場は活動を停止した(1714年短期間再開)。48年屋根が崩れ落ち、誰も修復しようとはせず、1800年代半ば、その壁面だけは見ることが出来た。」
  ――Aldo Bova 著『Venezia――I luoghi della Musica』(1995)より
  1. 2010/03/20(土) 00:01:26|
  2. ヴェネツィアの劇場
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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