イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: モリーン・バルビ・ヴァリエール・デッラ・トレッツァ館他

大運河を下っていくと更に右岸には、ロレダーン・チーニ館の右にモリーン・バルビ・ヴァリエール・デッラ・トレッツァ館(P.Molin Balbi Valier della Trezza)があります。『ヴェネツィアと入江』(1926)の記述は次のようです。
モリーン・バルビ・ヴァリエール館他「色々な時代の建築的痕跡が見られる1600年代の建物。ダルマツィアの施政官だったジェローラモ・マリーア・バルビの航海の回想録、つづれ織や一家の記念品などが、コッレール美術館に最後の相続人の手で引き渡された。現在はマルティーニの所有である。」

以前に取り上げた『大運河』(1993)は次のように書いています。

「四連窓が中央にあり、1階正面玄関は三つのアーチで構成された1600年代の建物で、1750年以後に両側にテラスが追加された。崩れたゴシック式の建物《パラディーゾ》の跡地が小庭園となり、右に隣接している。

古い貴族のヴァリエール家は、1297年の Serrata[大評議会の議員資格を限定して、新たな家系の参入を制限し、法的身分の貴族階級が規定された]に含まれており、その後引き続き存続した。2人の総督、多くの有名人を輩出した。

他の貴族同様に、庶民との間に人的社会関係を築く要がある時に、一家の一人ガースパレの死刑判決を受け入れねばならなかった。彼は裕福でイケメンの二枚目だったが、落ち着きのない青年だった。1511年ある税関吏に密輸を咎められ、殺してしまったのである。

同家の族長、貴族達の代表、3人の司法官、遂には全ヴェネツィアが十人委員会に彼の命乞いをした。しかし裁判所は耳を貸さなかった。ガースパレ・ヴェリエールは貴族であったが、縛り首になった。そして彼のために労を取った者全てが、相応しくない行動をとったとして、厳しく咎められ、3人の気の毒な司法官は公務員として解任され、生涯公務に就けないことになった。」

庭園の右はコンタリーニ・ダル・ザッフォ館(P.Contarini dal Zaffo)と呼ばれています。『ヴェネツィアと入江』(1926)は次のように述べています。
「後にマンゾーニ=アンガラーン館となったが、現在はデカゼス公爵の邸館である。全体的に構造はバランスが取れ、系統だったルネサンス建築の最も重要な作例の一つとなっている。
ブランドリーン・ロータ館他ダーリオ館よりは大分質素で控え目な建物であるが、それはむしろマーウロ・コドゥッシの手法に近い建築的特徴を示している。この建物で彼は当時の多くの石工達の一人ジョヴァンニ・ディ・アントーニオ・ブオーラの作品を利用したのだが、ロンバルド派の装飾家の手法に非常に受けのいい、その多色ポリクラミーの絵画タイプを採用したかったのであろう。

1783年(1758年が正しいようです)には裕福な絹商人マンゾーニに購入され、1800年代にはモンテクッコリ伯爵の所有に帰した。邸館内部にはドメーニコ・ティエーポロのフリーズ[帯状装飾]が保存されている。その一部をなす天井の『寓意画』も含めて、全体を装飾的に構成していたが、それはケルンに運ばれ、第一次大戦中に破壊されてしまった。」

一方『大運河』(1993)の記述は以下のようです。

「その設計案がマーウロ・コドゥッシ、ピエートロ・ロンバルド、ジョヴァンニ・アントーニオ・ブオーラの名前でなされたので、初期ヴェネツィア・ルネサンス(15世紀終り)の興味深い建築の一例となっている。美しいファサードは大理石で覆われ、各種の色の円形模様で飾られ、付け柱が三つの部分に分けているその中央部分は、長々続くアーチ形の五連窓により際立っている。

注文主の名前は知られていない。1562~82年の間、パレスティナのヤッファ(Jaffa=Giaffa、ヴェ語Zaffa)と交易関係にあり、ヤッファの伯爵称号を名乗っていた、コンタリーニ・ダル・ザッフォが館を獲得した。

1758年裕福な絹商人マンゾーニ、その後モンテクッコリ伯爵、更にデカゼス公爵の手に渡った。18世紀には内部はジャンドメーニコ・ティエーポロの絵画で飾られ、幾つかのフリーズ[帯状装飾]が現存する。」

コンタリーニ・ダル・ザッフォ館の右隣はブランドリーン・ロータ館(P.Brandolin Rota)です。『大運河』(1993)は次のように書いています。

「少々古い建物の改築による1600年代の物で、中央にアーチ状の五連窓のある開かれたファサードを持ち、その下にセルリアーナ式の正面玄関が構えている。ミラーノ出身のロータ家の所有となり、彼は1685年大評議会入りを許された。

1750年当家のマリーアがジローラモ・ブランドリーンと結婚、館の所有はその一家に移行した。1800年代ホテル・ウニヴェルソとなり、とりわけ英詩人ロバート・ブラウニングがレッツォーニコ館を手に入れる前のヴェネツィア滞在中、彼はここの客として迎えられた。この世紀、有名なソプラノ、トーティ・ダル・モンテ(Toti Dal Monte[本名Antonietta Meneghel] 、1893.06.27モッリャーノ・ヴェーネト~1975.01.26ピエーヴェ・ディ・ソリーゴ[コネッリャーノ近郊]、来日したこともある)の所有にもなった。」
  1. 2010/04/10(土) 00:01:49|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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