イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ospedale(O)(オスペダーレ=病院)(1)

現在ではこの言葉 ospedale(ヴェネツィア語 ospeal)は、《病院》の意味で用いられていますが、かつてヴェネツィアでは orfanotrofio(孤児院)等を指す、ospizio(慈善院、救貧院、養老院、巡礼者救護所など)の意味で用いられていたそうです。ですから収容される人達は、巡礼、病人、貧者、孤児、老人、あらゆる年齢・境遇の女などと救護を必要とする全ての人が対象でした(ボエーリオ著『ヴェネツィア語辞典』より)。

こうした施設がヴェネツィアに誕生したのは939年のことだそうで、共和国最晩年頃には115の施設があったようです(ヴェネツィア人はローマ以上にカトリック的で、慈悲深かったといいます。その証拠に大変な数の教会はローマの比ではなかったようです)。施設の運営は寄進・献金などに多く頼っていたので、維持するのは大変だったと思われますが、中には遺産の中から遺言で1600ドゥカーティも寄進した人の記録もあるそうです。

こうした慈善院で後世に名を残した、四つの養育院(この訳語が使用されることが多いように思われます)が、音楽学校(conservatorio)として、ヨーロッパ中に知られることになります。即ちピエタ(la Pieta`)、メンディカンティ(i Mendicanti)、オスペダレット(ヴェ語式l'Ospitaletto)、インクラービリ(gl'Incurabili)養育院です。

収容された人々を扶養していくには、お金が掛かることは目に見えており、献金を待つのではなく、音楽で人を集めて集金出来るということが次第に分かり、収容した子供達に音楽を教えるということが始まったようです。

オペラの公演が、世界で初めて商業ベースで行われるようになったのは、1637年にヴェネツィアの新カッスィアーノ劇場から始まったそうですが、その事と養育院の音楽院化の社会的背景が何やら関連がありそうにも思われます。

特に少女の孤児達(putte)で、手芸裁縫などを教わりながら、音楽に才能ありと思われた者が音楽教育を授けられたのでしょう。オスペダレット養育院のラーウラ・ロンバルディーニという少女は、特に優秀と認められ、パードヴァのタルティーニの下にヴァイオリンの勉強に送られたそうです。

逆に外国からも、孤児ではない少女達がこれらの養育院に音楽を学びにやって来ました。ヨーロッパの音楽学校の手本にもなったのです。
ピエタ養育院のヴィヴァルディについての碑スキアヴォーニ海岸通り(Riva degli Schiavoni)にあるサンタ・マリーア・ディ・ヴィズィタツィオーネ教会のピエタ養育院は、少女達を養育し、音楽はヴィヴァルディが指導し(1703~38)、ここの楽団をヨーロッパ随一という評判を得るまでに育てたそうです。教会右脇のピエタ通り(calle de la Pieta`)にピエタ養育院についてのプレートが掲げてあります。

サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会脇のメンディカンティ運河通り(Fondamenta dei Mendicanti)にあったメンディカンティ養育院は、本来1246年サン・ラッザロ(S.Lazzaro)島にハンセン病患者収容のために出来たのが始まりなのだそうですが、ブラーノ島出身のため《ブラネッロ》と呼ばれたバルダッサッレ・ガルッピ(1740~51)に指導されたことで知られています。

サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会隣の、サンタ・マリーア・デイ・デレリッティ教会のオスペダレット養育院では、アントーニオ・ポッラローロ(1716~43)やアントーニオ・マルティネッリ(1733~65)が長らく教師を勤めたようです。日本でも知られた音楽家(ジェラール・コルビオ監督映画『カストラート』でカストラート歌手ファリネッリに音楽を教えたナーポリのマエーストロ)ニコーラ・ポルポラ(1744~47)の名前もあります。

ザッテレ海岸通り(Fondamenta Zattere)のインクラービリ養育院は、ドイツ人作曲家ヨーハン・アードルフ・ハッセ(1733~39)、ガルッピ(1768~76)等が教えています。

引用させて頂いている『Venezia――I luoghi della musica』の著者 Aldo Bova は、歴史家は認めていないがと断わった上で、次のような挿話を挙げています。1709年ここでオルガンとチェンバロの競演が、ジョージ・フレデリック・ハンデル(Georg Friedrich Haendel)とドメーニコ・スカルラッティ(Domenico Scarlatti)の間で行われたのだとか、あるいはそれは2年前サン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ劇場だったかも、と。

『ミサの物語』(和田町子著、日本評論社)で、フランシスコ・シャビエル(旧ザビエル)が来日するずっと前、イグナティウス・デ・ロヨラがエルサレムに巡礼行をしようとして、その船待ちのためにここで奉仕活動をしていたことを知りました。《incurabili》とは伊語で不治を意味し、この施設は元々梅毒患者用のものだったそうです。

その後、この建物は用途が転々としたようですが、現在、アッカデーミア美術館にある未展示品を展観する施設に模様替えされるという話を聞きました。既に成ったのでしょうか?

2009年追記=アッカデーミア美術館の中にあった美術学校の本拠地(sede)がこちらに移り、未展示品の展観室ということではなかったようです。その後、美術館は工事(2005.02.04工事開始)されていましたから、美術学校の跡が、展示室に変わるようです。
  1. 2007/12/06(木) 14:22:31|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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