イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ロレンツォ・ダ・ポンテ(2)、ヴェネツィア時代の評伝

「ロレンツォ・ダ・ポンテは1749年3月10日、チェーネダ(現、ヴィットーリオ・ヴェーネト)で、倹しい生活ではあるが、教育のあるジェレミーア・コネリャーノとラケーレ・ピンケルレの間に生まれた。出生時はエマヌエーレと呼ばれた。

父(イズラエル・ダ・コネリャーノの子孫の出で、この一家はチェーネダに、高利貸し業をやりに来て、ユダヤ人社会を形成した)が、鰥夫となり、あるクリスチャン女性と再婚したいと望んだ時、カトリックに改宗しなければならなかった。1763年8月29日、父と3人の子供は洗礼を受けた。この事は彼らに、信仰をそんな風に変えることの励みとなり、更に価値を見出すことになったのだが、当時、秘跡を与えた司教の姓名を貰うという慣習があった。エマヌエーレがその司教の名も貰ったのである。[『回想録』の中で、司教の名を貰ったのは家族の中で自分が優秀だったからだと書いています]。
ダ・ポンテ『回想録』弟ジローラモと共にチェーネダ神学校に直ぐ受け入れられ、1764~67年そこで学び、その後ポルトグルアーロの神学校に移り、そこで1770年下級叙階を受け、修辞学教師、副司祭となった。1773年3月27日司祭に任じられた。同年秋ヴェネツィアに移り住んで、貴族の家庭教師をしながら、放蕩生活に耽溺した。1774年後半の数ヶ月、トレヴィーゾの神学校にイタリア文学と修辞学の教授として移動した。

トレヴィーゾでは詩人として頭角を現し、アカデミー活動に従事した。1775-76年の学年終りに当たって、生徒に暗誦させた詩作品のテーマは、≪人間が市民社会の法律と配分のために、人類の幸福に向かって、狭くても平坦な道を持つことが出来るだろうか、あるいは人間は原初の状態の中にあって、この同じ法律のために、人類の幸福に関わっていられるだろうか?≫と。

それは彼が、必要な時にはいつでも発表出来るように予め用意していた、明らかにジャン=ジャック・ルソーにインスピレーションを得た着想[当時の進歩的啓蒙思想]の小論文であった。その事がトレヴィーゾのヴェーネト元老院の通達で、現地の査問官長の下、ヴェネツィア共和国全域で彼の公の教育活動が全面禁止(1776年12月14日)されることになったのだった。

そこでヴェネツィアに帰り、ベルナルド・メンモの客人、ピエートロ・ザーグリの秘書官、ジョルジョ・ピザーニの友人となり、上流貴族と改革派のスポークスマンとなった。ヴェネツィアではガースパロ・ゴッズィ[1713~86、『Gazzetta veneta』『Osservatore veneto』紙などの発行者。『トゥランドット』『三つのオレンジへの恋』等の作家カルロ・ゴッズィの兄]と知り合い、カザノーヴァと友情を温めた。

(≪貴族の鬘を付け、総督帽を被った皮肉屋≫と彼に渾名を付けようかと世間で囁かれ、≪金曜日に肉を食べ、日曜日は教会に行かなかった≫と告発されたことを仄めかし、それが彼の不幸の原因となったと『回想録』で言及している)そのカトリック信仰の掟を守らないことと、政治的に危険を冒した上に、刑を宣告され、逃亡を余儀なくされる事態を引き起こすことになるというような、そんな彼のヴェネツィアでの放蕩生活だった。

メンモ家に滞在していた時、既に彼の友達のテレーザと多分親密な関係にあり、後々まで軽率な行動が多く、ザーグリに仕え、仕事を始めるようになった時、羽毛加工職人のカルロ・ベッラーウディの家の傍に住み始めた。判決書から読み取れるように、ベッラーウディの若い妻アンジェラと知り合って数日後には、≪彼女のcotola[古くはゆったりした短い白衣、当時はスカートの意?]の下に手を差し入れていた≫のを目撃されていた。直ぐに不信を招き、彼女に髪を梳かさせながら、≪彼女の前を触っていた≫、また少し後にも自分の部屋で素裸になり、窓からそれを女に見せているところを見られている。

1777年8月30日、愛人に亭主を捨てさせ、彼の元に走らせることが出来たが、女に逃亡を決意させるために、ベッラーウディに手切金を与えるなどと嘘を言っている間に、女は陣痛を迎えて女子を出産したので、エスポースティに連れていった。

従弟の家に投宿し、アンジェラと自由に会うことが出来るようになった。アンジェラは女友達に見られていても、彼と連れだってサン・ルーカ教会へ行き、ダ・ポンテが執り行うミサに参加して、刺激するような目線を投げ掛け、教区の女連中とも暗黙の了解といった目付きを交わすのだった。

不安定な状態でベッラーウディの妻と同棲しながら、ベッカーリとかいう浮気女の家に彼女を連れていき、そこで全く不用心に彼女と抱き合っている姿を見られたこともある。≪驚いたので、立ったまま、直ぐに身を隠そうとした。彼女はcotola(スカート)を下げたままであり、彼はいつも纏っているtabaro(男用マント)で身を隠した≫。

同じ家でダ・ポンテは、収入を得ようと舞踏会を開催した。彼はスータン(神父服)のまま登場し、楽団を指揮し、ヴァイオリンを弾いた。

今や住んでいるサン・バルトラミーオ[バルトロメーオ]地区の激しい非難の的になっており、更にアンジェラが三度目の妊娠をし、≪司祭の情婦≫と広く知れ渡るに及んで、1779年5月28日彼に対する匿名の告訴状が投函された(多分ベッラーウディの書いたものだったに違いない)。

宗教上の尊厳に対する冒瀆罪の刑執行人は、誠実な女の略奪、不倫、同棲の罪で裁判を開始した。記録によれば、裁判所は彼を15年の追放刑に処した、もし違反すれば≪暗黒の牢獄≫に7年間幽閉する(1779年12月17日)、と。しかし、同年9月13日、彼の逮捕命令が出た時には、ダ・ポンテは既に逃亡を謀り、ゴリッツィアに居た。」
  ――Da Ponte『Memorie /I libretti mozartiani』(I grandi libri Garzanti、1976)の巻頭の《生涯》より

[彼がヴェネツィアから逃亡したのは、満29歳の時でした]
  1. 2010/05/08(土) 00:06:08|
  2. | コメント:2
<<ロレンツォ・ダ・ポンテ(3)、ウィーン以後、死までの生涯 | ホーム | ロレンツォ・ダ・ポンテ(Lorenzo Da Ponte)(1)>>

コメント

こんにちは! なんとまぁ、大変凄い生活ぶりだったのですねぇ。 
と知ると、あの肖像画の顔や目つきが納得できます、成程。
人並み外れた知能と活力と、自分の才に自信を持つ若さから来る傲慢もあったでしょうね。

父親の職業は、やはり金貸しだったのでしょうか?
私が読んだのでは皮革職人とあったのですが、金貸し業の方が納得できる気がしますが。

  1. 2010/05/12(水) 05:55:38 |
  2. URL |
  3. shinkai #-
  4. [ 編集 ]

コメント、有り難うございます。
彼の放蕩の限りは、私の想像を超えていました。彼はドン・ジョヴァンニの
ように、地獄に堕ちなければならないのです。しかし、生涯貧乏でしたが、
アメリカで多くの人に見送られて眠りについたようです。アメリカでは放蕩を
する余裕がなかったのかもしれません。
私も彼の父は革のなめし職人だったと読んだ記憶があります。
  1. 2010/05/12(水) 13:04:21 |
  2. URL |
  3. ペッシェクルード #/plE8HKU
  4. [ 編集 ]

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

カウンタ

カレンダー

09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

最近の記事+コメント

カテゴリー

ブログ内検索

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

過去ログ

フリーエリア