イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ロレンツォ・ダ・ポンテ(3)、ウィーン以後、死までの生涯

ダ・ポンテのゴリッツィアの滞在期間は短かったようです。ザクセン選帝侯のお抱え詩人 Caterino Mazzola` の紹介状を持ってウィーンに行き、アントーニオ・サリエーリに会いますが、その時は相手にされず、一年後サリエーリがヨーゼフ2世に拝謁させ、その結果年俸1200フィオリーノの《皇室劇場の詩人》の職務を与えられたのでした。
ロレンツォ・ダ・ポンテ像[当時の書籍からの、ダ・ポンテ像]  ウィーン到着直後、彼はピエートロ・メタスタージオに会ったようですが、当時のウィーンには詩人や音楽家が沢山蝟集したようです。ウィーン宮廷付き詩人 Poeta cesareo としても1700年代にはピエートロ・アントーニオ・ベルナルドーニ、スィルヴィオ・スタンピッリャ、ピエートロ・パリアーティ、続いてヴェネツィア出身のアポーストロ・ゼーノ、メタスタージオと続いたそうです。彼もそうした人達に類した仲間になった訳です。

彼が演劇台本を書いたのはゴリッツィアで、ルアルプ(Leharpe)『Il conto di Warwick』を喜劇一座のために脚色したのが初めてのようですが、サリエーリの音楽『Il ricco di un giorno』(1784)でウィーン・デビューを果たしました。それ以後ビセンテ・マルティン・イ・ソレルの『Il Burbero di buon cuore』(1786)、ジュゼッペ・ガッザニーガの『Il Finto cieco』(1786)と続きます。

彼は1783年、ユダヤ人男爵ライムント・フォン・ヴェッツラーのサロンでモーツァルトと知り合います。彼がモーツァルトのために初めて書いたとされる台本は、伝記作家アルフレート・アインシュタインによれば『騙された花婿(Lo sposo deluso, o sia La rivalita` di tre donne per un solo amante)』(1783――未完)だそうです。

その後ダ・ポンテのモーツァルトのためのイタリア三部作『フィガロの結婚』(1786)、『罰せられた放蕩者あるいはドン・ジョヴァンニ』(1787)、『コジ・ファン・トゥッテ(女はみんなこうしたもの、あるいは恋人たちの学校)』(1790)が成功裏に終わります。『ドン・ジョヴァンニ』は1787年10月29日プラハ国民劇場で、モーツァルトの指揮で初演されました。

彼がヴェネツィアであれほど放蕩の限りを尽くしたことからすれば、ドン・ジョヴァンニを地獄へ送る結末まで書かざるを得なかった気持も分かる気がします。彼がドン・ファン伝説の系譜に目を通し、ティルソ・ダ・モリーナの最初の劇作品、モリエール『ドン・ジュアンまたは石造の客』(1665)、ゴルドーニ劇作品『ドン・ジョヴァンニ・テノーリョまたは放蕩者』(1736)、リギーニ『石の客人または放蕩者』、ベルターティがガッザニーガのために書いた、大成功のオペラ台本『ドン・ジョヴァンニ・テノーリョあるいは石の客人』(1787)等を目にしていたことは当然のことと思われます。

これらの作品と同時進行で、彼はマルティン・イ・ソレル『Una cosa rara, o sia Bellezza ed onesta`』(1786)と『L'Arbore di Diana』(1787)、サリエーリ『Axur, re d'Ormus』(1788)の台本を書いています。

彼がウィーンを後にした後トリエステからこの地に帰ってみると、演劇界は再び任命された宮廷詩人ジョヴァンニ・バッティスタ・カスティに支配されており、彼はなすすべもなくウィーンを去るしかありませんでした。サリエーリのオペラ『音楽が第一、言葉は次に(Prima la musica e poi le parole)』(1786)のカスティの台本は彼を揶揄したもののようです。

彼はトリエステで結婚していたイギリス人アンナ・セレスティーナ・グラールとパリに向かいました。ドイツのドゥックスでカザノーヴァと再会しますが、彼からは革命後のパリではなくロンドンに行くように薦められたようです。

ロンドンでもオペラ興行や出版活動等、色々模索したようですがうまくいかず(劇場支配人テイラーに大変切り詰めた費用と期間で歌手をスカウトして来るように頼まれ、イタリアに帰り、ヴェネツィア、トレヴィーゾ、パードヴァ、ボローニャ、フィレンツェと回った時、チェーネダの父に再会したのは1798年10月~99年3月のこと。また借金のため投獄されたことも何回かあったようです)、アメリカに渡っていた妻の実母の薦めに従って、結局債権者の手から逃れるために1805年新天地に向けて乗船しました。

アメリカでの生活も楽ではありませんでしたが、イタリア語を教えたりする内に、1825年コロンビア大学の伊語教授職を引き受けます。その頃マヌエル・ガルシア一座のニューヨーク公演(1825年5月23日)があり、『ドン・ジョヴァンニ』他ロッスィーニ作品等イタリア・オペラが彼の前で演じられました。この頃『回想録』を執筆しているようです。
[資料によりますと『ドン・ジョヴァンニ』のアメリカ初演は1817年11月27日ニューヨーク・パーク劇場とあります]

弟アゴスティーノと歌の勉強をしているその娘のジューリアが彼が80歳の時にアメリカを訪れ、彼女のために新しい音楽の企画をしました。上記の事が切っ掛けになったのか、イタリア・オペラ・シーズンを企画し、ニューヨークとフィラデルフィアでロッスィーニ、ベッリーニ、メルカダンテの35曲を上演します。1833年には『泥棒鵲(La Gazza ladra)』、続いて『シンデレラ(La Cenerentola)』『秘密の結婚(Il Matrimonio segreto)』『セビリャの理髪師(Il Barbiere di Siviglia)』、これがダ・ポンテ最後の企画でした。

1838年8月17日、90歳前で亡くなり、大勢の人に見送られたそうですが、1850年にはその墓は失われてしまったそうです。
[彼が生涯に書いた台本の数は、36本。『回想録』の巻頭の評伝から、概略彼の後半生を纏めてみました。]
  1. 2010/05/15(土) 00:03:32|
  2. | コメント:2
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コメント

こんばんは! 拝見しつつ、モーツァルトとのあの輝かしい3作、彼の名が多分永遠に
残るであろう作品は、いったいいくつの時だったのかと計算しました。 
37歳から41歳。 まさに円熟期にかかる、そしてあの作品の躍動する様な溌剌さ、
納得しました。 そしてああいう作品は、やはり作家だけでは無理なのでしょうね、
良き作曲家とのちょうど良い出会い、まさに運命の出会いだったのでしょう。
56歳になってのアメリカ行きは大変だったでしょうが、お金持ちでは無くとも仕事があり、
最後の上演の企画もこなし、大勢の人に見送られてのお葬式。
なんとなくこちらもホッとする人生の終わりで良かったです。

知りたかった彼の人生、ご紹介有難うございました!
  1. 2010/05/19(水) 21:41:29 |
  2. URL |
  3. shinkai #-
  4. [ 編集 ]

コメント、有り難うございます。
モーツァルト好きがダ・ポンテ好きになってしまい、辟易する程の放蕩の限りを
尽した彼の事績を辿ることになってしまいました。ヨーロッパでは彼の『回想録』
は、どの国でも訳されているのでしょうが、日本では読めません。彼も書いている
そうですが、台本が良く、作曲もいいと傑作になるけれど、台本が悪いと作曲が
良くても駄目、台本が良くても作曲が悪いと駄目だとか。
私自身、自分の備忘録にブログを書いていますので、一番便利しているのは私自身
です。書きながら再度勉強している感じです。ですからお礼は言わないで下さい。
次回は頂戴した『ダ・ポンテからカザノーヴァへの手紙』を訳してみます。ヴェネ
ツィアでの彼の人間関係が、訳注から分かります。勉強になります。
有り難うございました。
  1. 2010/05/20(木) 12:12:43 |
  2. URL |
  3. ペッシェクルード #/plE8HKU
  4. [ 編集 ]

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Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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