イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ロレンツォ・ダ・ポンテ(4)

Shinkaiさんに頂いた Giampaolo Zagonel 編『ダ・ポンテからカザノーヴァへの手紙 Lettere di Lorenzo Da Ponte a Giacomo Casanova 1791-1795』(Dario De Bastiani Editore、1988)に納められた14編の書簡の中からヴェネツィア関連の手紙を訳してみます。
ダ・ポンテからカザノーヴァへの手紙ジャーコモ・カザノーヴァ[ピエートロ・ロンギの描いたカザノーヴァ]  「尊名高きジャーコモ様へ
私は彼女の、ローマかマドリッドに行くようにと言う助言に従うことが出来ませんでした。というのは、彼女が私の前に現れた、その日にウィーンに戻り、自分の弁護は書面でするようにと言われたのです。私がこの町に戻ると、我が敵を恐れさすことになりました。事ほど左様に、皆は私が皇帝の命のため、公式的にはそこから距離を置いた所にいると話していました。どうなる事か様子を見ましょう。

いずれにしても私の目線はヴェネツィアに向いています。沢山の希望が私に呼び掛けていますが、とりわけこの悲惨な状態から立ち直りたいという望みが第一です。私の家族達は、我々が何度も話しましたように揉め事には勝っています(1)。その事についてはザーグリ(2)にもメンモ(3)にもダ・レッゼ(4)にも書きました。彼らは総督閣下に弟(5)が提出した嘆願書の後押しをしてくれました。

十人委員会では2票が足らず、結果は駄目でした。再度挑戦するように勧告されました。フェッラレーゼ(6)は亭主とヴェネツィアに既に発ちましたが、私に興味をもって、よく考えて行動してくれるでしょう。

リッポマーノ(7)は、他のパトロン達と一緒になりました。彼にここの大使(8)が私の事を推薦してくれましたが、我がカザノーヴァ師以上の事は、私の願いや仕事に貢献するやも知れませんが、それは殆どないと思われます。御家来衆に手紙を繰り返し読み、そのいくつかを彼のパトロンに送付すれば、困難さが減じるやも知れません。彼女が直ぐにそれを実行に移し、彼女の性格に特徴的なあの情熱をもってすれば。

今日は少なくとも12通書かねばならなかったので、彼女に長々とは書けませんでした。しかし出来るだけ早く2枚ほど追加します、この手紙には欠けていますが。彼女が同じ十人委員会の誰か委員に書いてくれれば、それは最高です。結局彼女はカザノーヴァ師のように行動することでしょう、私を愛し、信じている筈です。
 ウィーン、1791年6月18日付   忠実なる友、ダ・ポンテ
65歳のジャーコモ・カザノーヴァカザノーヴァの碑[左、63歳(1788)のカザノーヴァ。右、カザノーヴァの生家の碑――カザノーヴァの両親は、Gaetano Casanova と la Branella と愛称された Zanetta Farussi の役者夫婦ですが、実の父は貴族の Michele Grimani ではないかと言われています。ミケーレ・グリマーニはサンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ劇場やサン・サムエーレ劇場を建てた人物です。サン・サムエーレ劇場(父も母もここの舞台にも立っています)傍のマリピエーロ通りでカザノーヴァは生まれ、将来この劇場で楽師として働きます。]

≪注(1)≫……ウィーン宮廷での不運は通称ラ・フェッラレーゼ、歌手アドリアーナ・ガブリエーリ・デル・ベーネのウィーン到着に遡る。彼女は1788年半ば頃、ブルク劇場と1791年のカーニヴァルまでの契約を結んだのだった。ダ・ポンテは彼女にすっかりのぼせ上がり、彼女に全てのオペラで重要な役を割り振り、出来るだけ役を目立たせようとあまりにも軽率な行動をとったために、他の芸術家に危機感を抱かせ、演劇的謀略戦争に引き込まれ、芸術家や作家と対立することになった。
……
フェッラレーゼがフィオルディリージ役を演じた『コジ・ファン・トゥッテ』の上演から数日して、皇帝ヨーゼフ2世が亡くなり(1790.02.19)、ダ・ポンテは自分の幸運は皇帝の好意のお陰であることを直ぐに悟った。その後丸1年彼は新皇帝レオポルト2世の下、彼を葬ろうとする敵の攻撃から身を守るのに大童だった。

≪注(2)≫ピエートロ・アントーニオ・ザーグリ(1733~1806)は共和国最後のヴェーネト貴族の興味深い特徴を示している。政治上の職務を沢山帯びていたが、嫌々ながら甘受していた。中でも裁判所と元老院の施政官である。ダ・ポンテの最初のパトロンの1人であった。ダ・ポンテが1776年共和国のヴェーネト神学校での教育活動を差し止められた時、スキャンダルに満ちた彼の生活態度のために直ぐ様解雇した。それにも拘らず、ダ・ポンテはいつも彼の事を愛情深く思い出し、1788年ウィーンから彼に八つ折判の書簡を送っている。

ザーグリの弟ピエートロ・マルコ(1738~1810)は、同時代の、敬虔で寛容、教養ある人物として記述されている。1777~85年チェーネダ司教だった。多分ダ・ポンテがヴェネツィアの彼の兄の秘書として招かれたのは、この人の推薦だっただろう。
マルコ・ザーグリの肖像[マルコ・ザーグリの肖像――ザーグリの邸館は、サン・マウリーツィオ教会を背にして広場左手の大きな館がそれのようです。脇道はザーグリ通りで、裏はコルネール・ザーグリ運河通りです]

≪注(3)≫メンモは3人兄弟で、特にアンドレーアとベルナルドはダ・ポンテの『回想録』とダ・ポンテからカザノーヴァへの書簡に引き続き登場する。アンドレーア(1729~93)はジャーコモ・カザノーヴァが始めた、ヴェネツィアの最初の Franchi Muratori(フリーメーソン)の一員だった(そのため3人の兄弟の母がカザノーヴァを裁判所に訴えた。彼はピオンビ監獄に囚われ、脱獄をすることになる)。

アンドレーアは政治家として非常に優秀で、崩れゆく共和国の文化の担い手だった。元老院議員、ローマ大使、コンスタンティノープルの Bailo(トルコ大使)、総督職に次ぐサン・マルコ財務官だった。パードヴァのプラート・デッラ・ヴァッレ広場の整備は彼のお陰である。芸術家や文学者のパトロン(彼と弟のベルナルドにカルロ・ゴルドーニは喜劇『世界の男』を捧げた)で、一生を通じてジャーコモ・カザノーヴァとは親友だった。
サン・マルクオーラ教会他[サン・マルクオーラ教会左隣の、アンドレーアが生まれた《メンモ・マルティネンゴ》館] ベルナルド(1730~1815)も元老院議員(十人委員会の一員)で、芸術家や文学者の友人であり、1777年秘書の肩書でダ・ポンテを家に呼んだ。彼に書いた手紙がある。

≪注(4)≫ジョヴァンニ・ダ・レッゼはヴェネツィア貴族で、手紙に登場した時点では十人委員会メンバーだった。『回想録』にも書かれているが、1752年生まれの司祭で詩人であったジャーコモの弟ジローラモは秘書として、彼の家に呼ばれたが、1783年8月肺病で若くして亡くなってしまった。

≪注(5)≫1764年生まれの弟アゴスティーノは父の再婚での長子。ウィーンにもトリエステにも彼に同行した。手紙時代はヴェネツィアにいたらしく、フェッラレーゼの恋人でもあった。ヴェネツィアで生活し、1828年には、歌の修業をしヴェネツィアでも評判を得ていた娘のジューリアを連れて、彼に会いにアメリカへ行った。この弟に彼は十人委員会に嘆願書を提出させた。1779年彼に科せられた15年の追放刑を撤回してもらうためである。受理されなかった嘆願書は、ザーグリからカザノーヴァに宛てた手紙で我々は知ることが出来る。

≪注(6)≫ラ・フェッラレーゼと通称されたアドリアーナ・ガブリエーリ・デル・ベーネは1755年フェッラーラに生まれた。孤児となり、ヴェネツィアのメンディカンティ慈善院[当時は音楽学校]に収容され、少女達と典礼聖歌を教えられた。1783年ヴェネツィアのローマ領事の息子であったルイージ・デル・ベーネとそこから逃亡し、結婚した。

ウィーンに来る前はロンドン、ミラーノ、トリエステで歌っていた。夫婦は妻の恋の放縦さ、夫の人の良さで、行く先何処でも有名になった。

ダ・ポンテがフェッラレーゼ(その夫も)は自分の利害を守るに足る人物で、成功間違いなしと踏んだのは、とんだ喜劇である。事実自分の不運がこの歌手への熱い思い入れから来たことは自覚するに至っており、『回想録』の中でも明言しているが、ウィーン出発後「……1ヶ月も経たない内に、唾棄すべき熱狂の呪縛が解け、3年間も続いたこの女の奴隷状態から解放された」と。

この歌手にダ・ポンテが狂乱したその反響はよく知られており、確認のため一例を挙げておく。1790年1月4日付のコッラルト伯爵への手紙で彼は書いている。「私はフェッラレーゼの事を笑いました、それもいつもの詩人の歯に衣着せぬ物言いで。詩人は舞台に自分自身を表現出来ないと大変悩んでいたと思います」と。他の書簡も、何年もダ・ポンテが当時の《芸能欄》で物笑いの種にされていたと記している。

≪注(7)≫ガースパレ・リッポマーノはヴェーネト貴族で、昔気質の元老院議員だったが、あまりにも貴族というものを擁護し、自らの名誉のために死さえ称賛した。

≪注(8)≫ダニエーレ・アンドレーア・ドルフィーン(1748~98)。初めパリ大使(1780~86)であった。ウィーン大使セバスティアーノ・フォスカリーニの死(1785)を受けて、1786~92年ウィーン大使。彼の邸宅にダ・ポンテやカザノーヴァがしばしば招かれた。」
  ――『ロレンツォ・ダ・ポンテからジャーコモ・カザノーヴァへの手紙』(Giampaolo Zagonel 編、Dario De Bastiani Editore、1988)より

[次回は彼の『回想録』の一部の試訳、私には難解な翻訳への無謀と言える挑戦です。]
  1. 2010/05/22(土) 00:05:06|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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