イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――ダ・ポンテの回想録(5)

「……私の両親と友人達、とりわけジュスティニアーニ家の人々――トレヴィーゾの司教はこの名門一家の出であった――は私に、自分を守護するにはヴェネツィアに赴くのが良かろうと慫慂した。
ダ・ポンテ『回想録』アンドレーア・メンモの肖像[右、ベルナルド・メンモの兄、アンドレーア] この都市に参着した数日後、ベルナルド・メンモの知己を得た。彼はこの共和国で最も著名であり、具眼の士として知られた一人だった。私の茶話を聞き、佑助を約束してくれた。この時代最も傑出した文学者であったガースパロ・ゴッズィ[1713~86、『Gazzetta veneta』『Osservatore veneto』紙等の発刊者。『トゥランドット』『三つのオレンジへの恋』等の作家カルロ・ゴッズィの兄]が私の後ろ盾になってくれるようにと、直ちに動いてくれた。

彼はその年、改革派の味方であり、実際に相談役であった。私の不運な作品を彼に送付し、世間の常識でもあることだが、彼に尺牘を認め送るように口添えをしてくれたのはこのメンモだった。

  ゴッズィさま、寛容なるお心をお持ちでいらっしゃるならば……

大文学者の寛容な心に、これらの詩句が最良に功を奏することを願って書いた。その事について熱意を込めて語ったのだが、他人に向けて発する彼の舌鋒は私の評判を貶めるに、新たな言質を与えるに益するのみだった。

≪この若者には≫とゴッズィは言った。≪穎才がある。それ故彼を鼓舞しなければ、と思う≫。また一方≪彼は全く性悪である≫と改革派の連中が付言した。≪彼から危険な要素を除去する必要がある≫と。彼らのそうした文言の中には、憎悪や敵愾心が渦巻いていたが、その悪感情はジュスティニアーニ家に対して抱いていたもので、それについては既述したが、トレヴィーゾの司教が一家の一員であり、彼らが私を面目失墜の底に陥れようとしたのであった。

彼の兄がパードヴァの教授職に対して、公表した教皇攻撃のある文書で、何年か前元老院で大変実効的な弁護をしたことがある。彼らはかつて彼らのお気に入りのパードヴァの教授職を失ってしまったが、その腹癒せにトレヴィーゾ神学校の文学教授の教壇から私を引き摺り降ろそうと謀ったのだ。

こうしてあの瀕死の際にあった共和国の不幸な時期に、ある時は復讐劇として、またある時は奇想劇として、才鋒と天真爛漫が重く圧し掛かり、このように少人数の誘惑的なペテンの雄弁に誑かし込まれて、数多の人が判断を誤り、臆病に迎合するか、無識蒙昧に対して甘い顔をして見せ、それらは独裁者の爆弾や弾け飛ぶバネに成り果したのだ。

その間に元老院の議論が固まる夕べがやって来た。メンモやザーグリは他の数人の議員と、公正を愛するが故に私を庇護出来ればと思ったか、あるいは私の敵対者の言葉や信じ切っている事に恐れをなしたのか、はたまた私の告訴の性質からして私を弁護するに値せざるを得ないと信じてか、剰え慎重であり過ぎたということもあってか、口にすべき必要な判断を過った。

二人の国家審問官、殊に能弁のモロジーニが私を同じように告発した。この人物は《元の軍人省》(ex officio)に属していたが、私の提案の公刊を禁じたり、許可したりするのである。宗教審問官は神父のバルバリーゴで、カプチン派の我武者羅な擁護者であり、《祭壇まで更にもっとその先まで(極度に更にそれ以上に――usque ad aras et ulterius)》気に入り、好んでいる人物だった。彼は自分達を弁護し、モロジーニに賛同し、私を責譲した。

そして、それを気に入らせたいという意図からしてなのか、あるいはそれを認める顔を見たと信じてか、途轍もない大音声でラテン語の悲歌を読み上げた。その哀歌をこの令名高きパンタローネ閣下殿ら[旧弊なヴェネツィア商人貴族]は、殆ど理解していないに違いなく、しかし、罵詈讒謗と厭味皮肉の真っ只中で朗誦し、私に癇癪を起させる旧套墨守の分からず屋共を指嗾するのに大いに裨益した。『ヨーロッパのアメリカ人』がその悲歌の題名だった。」
  ――Da Ponte『Memorie/I libretti mozartiani』(i grandi libri Garzanti、1976)のp.42~43より

ダ・ポンテの『回想録』を読みながら、私の語学力ではとても訳せないと思いました(この国語としてこなれていない訳例には誤訳が多いことと思います。せめて雰囲気だけでも伝わりますように)。彼の伊語は、古い伊語(avevo→avea、con me→meco[←羅語 mecum]等)のようであり、詩人として古い文学用語や詩語、雅語を多用しているのでしょう。ヴェネツィア語のスペルも頻出します。当然のようにラテン語やヘブライ語の引用もあります。その上彼一流の雅文調とでも言うのでしょうか素直でない、佶屈聱牙な表現[詩のように倒置(esser doveva)もあります]で、構文を理解するのが至難でした。

機略縦横の諧謔に満ち、手前勝手なでっち上げ(?)等を散りばめた盛り沢山の内容を、彼の文体に合った日本語で読める、そんな訳本が発刊されないものでしょうか。例えば、鷗外の『卽興詩人』のような、軽い、判り易い現代語訳では面白味がありません。

追記(2010.08.14日)=私が待っていたダ・ポンテについての本が出版されました。田之倉稔先生の『モーツァルトの台本作者――ロレンツォ・ダ・ポンテの生涯』(平凡社新書、2010年8月10日発行)です。少なくともダ・ポンテについて纏まって書かれた嚆矢だと思われます。早速書店に走ります。
  1. 2010/05/29(土) 00:06:44|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
  3. | コメント:2
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コメント

こんばんは! 難しい文章を日本語で読ませて頂き感謝です。 その4と共に、人物関係をも良く調べられたのに感嘆しています。 が、やはり背後関係を知らない人間には、まだ飲み込めない事ばかりで、でもゆくゆく少しでも理解できるようになる様願います。
それにしても、あの素晴らしい台本に至るまでには、やはりかなり痛い思いの後に辿り着いたのですね。 人間洞察に関しては、やはりそういう期間が必要なのかも、と思った事でした。

ポンテの人生模様、その1から3について、私のブログの方でご案内とリンクをさせて頂きました。 事後承諾になりましたが、どうぞよろしくお願いいたします。
  1. 2010/05/29(土) 17:16:53 |
  2. URL |
  3. shinkai #-
  4. [ 編集 ]

shinkai さん、コメント有り難うございます。
モーツァルト好きは、台本作者のダ・ポンテのことが日本ではあまり紹介されて
いないのが、イタリア好きの者にとっては不満でした。映画『Io, Don Giovanni』
を先日見たのが切っ掛けで、彼の事を5回も書いてしまいました。彼のオペラは
彼自身の放蕩の事を書いた作品のように思われます。
頂戴した彼のカザノーヴァへの書簡は、その注から当時のヴェネツィアの様子、
人間関係が分かり、私の一番興味のある18世紀ヴェネツィアの諸々が分かり、
全てを読みたいと今思っています。有り難うございました。
  1. 2010/05/30(日) 10:43:55 |
  2. URL |
  3. ペッシェクルード #/plE8HKU
  4. [ 編集 ]

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Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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