イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

サン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ(マーリブラン)劇場

「貴族のグリマーニ家がトンマーゾ・ベッズィの案で1677年に建てた劇場[グリマーニ家としては、サン・ジョヴァンニ・エ・パーオロ劇場、サン・サムエーレ劇場に次ぐ3つ目の物]。その場所にはかつてマルコ・ポーロ家の建物が建っていたが、それは1500年代末に火事で焼失していた。
マリブラン劇場[マーリブラン劇場、Wikipedia から借用] 1678年のカーニヴァル時、カルロ・パッラヴィチーノのオペラ『ヴェスパジアーノ(Il Vespasiano)』[ネロ没直後のローマ皇帝ウェスパシアヌス]で開場した。1600~1700年代を通じて、主に歴史に取材した音楽劇を上演した、その中にはカルロ・フランチェスコ・ポッラローロ、アントーニオ・ロッティ、アントーニオ・カルダーラらがいる。

ヨーロッパで最も美麗、最も有名、最大の大きさ(舞台は26mX20m)、そしてヴェネツィアでも最も豪奢な飾り付けの劇場であった。巨大なシャンデリアが天井からぶら下がり、開幕すると天井に引き上げられた。桟敷席の全ての柱は彫刻と装飾が施された。舞台装置は同時代人の驚きと称賛をもって迎えられた。それ故ヴェネツィア全劇場が入場料を半額に下げた時、ここだけは華麗な装飾と観客の社会的レベルの高さで、料金不変で済ますことが出来た。

1679年オーケストラは40人という規模で構成され、その数字は当時としては破格のものだった。1707年アレッサンドロ・スカルラッティの二つのオペラが板に上った。ある伝記作者は、若いゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(ジョージ・フレデリック・ハンデル)が1707年1月14日に、ここでクラヴィーチェンバロを演奏し、皆を驚嘆させたと語っている(全伝記作者が認めている訳ではないが)。
[アレッサンドロ・スカルラッティの『ミトリダーテ・エウパトーレ(Mitridate Eupatore)』[反ローマの姿勢を貫いたポントス王ミトリダテス6世]の初演は1707年]

1709年12月26日、ヘンデルの『アグリッピーナ』[ネロ皇帝の母]が、作者出席の下での上演で、大成功を収め、27回続演された。1730年にはアードルフ・ハッセの『アルタセルセ』[アケメネス朝ペルシア帝国の王アルタクセルクセス]は大成功であった。1734年にはあらゆる時代を通じて最も有名な2人のカストラート歌手カルロ・ブロースキの《ファリネッロ》とガエターノ・マイヨラーノの《カッファリエッロ》が同じシーンで登場し比較された。

1756年にはアントーニオ・コドニャートにより修復された。1747年まで劇場は音楽劇のみを上演していた(ヴェネツィアでは唯一)。しかし経済的要因のため、喜劇団も呼ばざるを得なくなった(ガースパロ・ゴッズィとカルロ・ゴルドーニの協力を得た)。次第に観客のタイプ(好み)が変質していったのである。1700年代末、上演中でも栗と煮洋梨売りの屋台が1階平土間席に置かれるようになったのはそんな時期だった。

徹底した修復が施され、新しい所有者ジョヴァンニ・ガッロの希望で、1819年10月31日ジョアッキーノ・ロッスィーニの『泥棒鵲(La Gazza ladra)』が上演された。1834年全面改装され、エメロニッティオ(Emeronittio)劇場と改名された。それは昼も夜も利用可能なように、大きな窓を設置しての開場だったからである。

1835年4月8日有名な歌手エルヴィーラ・マリブラン[著者は Elvira と書いていますが、ロッスィーニの『オテッロ』歌手マヌエル・ガルシアの娘マリア・フェリシアのことで、後にウジェーヌ・マリブラン(仏人)と結婚し、この世紀、一世を風靡したマリア・マリブランのことのようです]が、ヴィンチェンツォ・ベッリーニの『夢遊病の女』を歌って大成功を収め、劇場主は彼女に敬意を表し、《マーリブラン劇場》と再び劇場名を変えた。

[彼女が『夢遊病の女』を歌った時、第一幕の最後で舞台に花束が投げ入れられ、天井桟敷の席からは鳥籠の鳥が放たれました。彼女は報酬の4,000オーストリア・リラを劇場のために役立てて欲しいと、劇場主ガッロに差し出しました。その事を受け、彼は劇場名を《マーリブラン劇場》と変更し、敬意を表明します。翌1836年6月落馬の怪我が原因で、彼女は28歳の若さで亡くなりました。その歌唱は当時の多くの偉大な作家や芸術家達に大いに称賛されたそうです。因みにその名前を列挙してみますと、ハンス・アンデルセン、アルフレッド・ド・ヴィニ、ジョルジュ・サンド、ショパン、ドニゼッティ、パガニーニ、ベッリーニ、ミュッセ、モシェレス、ラファイエット、リスト等。]

1849年のオーストリア占領中、劇場は砲撃を受けた。≪大砲の弾の一つは平土間席のほぼ真ん中に落ちた≫。1875年7月10日ジュゼッペ・ヴェルディの『レクイエム(Messa da requiem)』が、演劇形式で演奏され、大成功を収めた。1800年代末レパートリーがオペレッタに限られた。1890年建物は新エジプト・スタイルで修復された。

1900年代初頭、あらゆる催物が板に乗せられた: 映画、曲馬団の出し物、レスリング、前座ショー、散文劇、オペラ、オペレッタ。1919年再び改装され、以来劇場としてまた映画館として使用される。1979年9月26日サルヴァトーレ・シャッリーノの『石棺の鶉(Cailles en sarcophage――中に詰め物をした鶉料理の事のようです)』が上演された。

1980~83年講座や実験工房となり、バレリーナで振付師の Carolyn Carlson が『Undici onde』(1981.02)、『Underwood』(1982.02)、『Chalk Work』(1983.03)の上演準備をした。」
  ――Aldo Bova『Venezia――I luoghi della musica』(Scuola di musica antica Venezia、1995)より

何年か前から市の再利用[市の所有になったのは1992年]の決定を待ちながら閉鎖されていたようですが、1996年1月29日のフェニーチェ劇場の焼失[その再開場は2003年12月14日]を受けて、2001年修復がなり、再度音楽堂(la seconda sede della Fenice)として蘇りました。次の市のサイトもどうぞ。teatro Malibran
炎上するフェニーチェ劇場(1)炎上するフェニーチェ劇場(2)[炎上するフェニーチェ劇場] ジョン・ベレント『ヴェネツィアが燃えた日――世界一美しい街の、世界一怪しい人々』(高見浩訳、光文社、2010年4月25日発行)を読みました。推理小説を読むように楽しく読みました。フェニーチェ劇場の火災の事だけでなく、ヴェネツィアの現状がとても身近に感じられました。大分前ですが、逃亡した放火犯のエンリーコ・カレッラがメキシコに潜伏していることが判明したとPC上で言っているのを聞いたことがあります。
  1. 2010/06/05(土) 00:01:35|
  2. ヴェネツィアの劇場
  3. | コメント:0
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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