イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: コンタリーニ・デッリ・スクリーニ・エ・コルフ館他

アッカデーミア停留所の右隣には、かつてのカリタ運河の一部が顔を見せており、その奥はカリタ埋立通り(rio` tera` de la Carita`)となっています。その右には目立たない2階建ての低い19世紀の住宅、更にクェリーニ・ヴィアネッロ(Querini Vianello)館と続きます。E.&W.Eleodori の『大運河』(1993)は次のように述べています。

「カリタ広場に面した一角に立つ、単純な線模様の建築(1700年代)。ゴシック式建築物のエリアに建てられたので、ピアーノ・ノービレ[貴族の館の主要階で通常は2、3階にある]の中央に、テラス付きの単純なアーチ状の三連窓があり、その両側にそれぞれ窓を併設している。現在はイギリス領事館の所在地である。」

その右隣りにはモチェニーゴ・ガンバラ(Mocenigo Gambara)館があります。『大運河』(1993)は次のような話を載せています。
モチェニーゴ・ガンバラ館他[中央がモチェニーゴ・ガンバラ館] 「17世紀後半の建設。この倹しい建物の特徴は右側に寄った三角形のペディメントに接するセルリアーナ[16世紀の建築家セバスティアーノ・セルリオが紹介した中央アーチと左右の水平材から成る三連開口部。彼はパッラーディオ等に影響を与えたという]式の、入口玄関が中心軸となる窓である。左側はアーチ状の小型のペディメントの窓が規則的に続いていく。

中庭に面した内部の正面は、その後ポルデノーネのフレスコ画で飾られた。現在はヴェネツィア工業連盟の所在地となっている。

ブレッシャ出身でヴェネツィアに越してきた貴族のガンバラ家は、特に1550年に亡くなった詩人のコッレッジョ侯爵夫人ヴェローニカで知られている。一家はカンディア戦争中、共和国の10万ドゥカートの要求に応じただけでなく、他にも夥しい財政援助をしたことにより、1653年貴族を名乗ることが許された。

[カンディア(Candia伊語)=クレタ島のイラクリオン。ヴェネツィアは1645~69年の長きに渡って、トルコ軍のクレタ包囲戦を闘い、その闘いは una vera guerra di Candia(“妥協なき抵抗”を意味する)と言われましたが、1669年9月6日海軍司令長官フランチェスコ・モロジーニは権限を超えて、カンディアのトルコへの譲渡と引き換えに、オスマン帝国宰相アフメット・キョプリュリュと平和条約を結びました。包囲戦に要した費用は425万3000ドゥカート。]

この戦争はかくも長き長期戦であり、精も根も尽き果てるものだったので、《andare in Candia(カンディアに行く)》というヴェネツィア独特の言い回しは《一文無しになる》という意になった。

この邸宅は著名な艦隊司令長官ラッザロ・モチェニーゴが生まれた家であり、1678年エレオノーラ・ガンバラがフランチェスコ・モチェニーゴと結婚すると、ガンバラ家の所有に帰した。」

更に大運河を下ると、コンタリーニ・デッリ・スクリーニ・エ・コルフ館(Palazzi Contarini degli Scrigni e Corfu`)という2棟が繋がった館となります。『大運河』(1993)の記述は以下の通りです。
コンタリーニ・デッリ・スクリーニ・エ・コルフ館[中央は2棟が繋がった白いコンタリーニ・デッリ・スクリーニ・エ・コルフ館] 「異なる時代の二つの建物が隣接しているもの。右側は後期ゴシックの物で、近くにあるロレダーン・デッランバッシャトーレ(Loredan dell'Ambasciatore)館に非常に近似しており、前面は中央に華麗な四連窓があり、三つの部分に分かれている。17世紀にサン・ピエートロ・ディ・カステッロ大聖堂のファサードを完成させたパッラーディオの弟子フランチェスコ・ズメラルディの手(?)によって内部が改装された。

左側は1609年のヴィンチェンツォ・スカモッツィ[パッラーディオの弟子]の作品である。ゴシック建築の階の高さを保つ必要性ということ、また恩師の存在というものが彼に及ぼした強い絆というものを感じさせる。

1階は浮出し飾りのある切り石積みの壁面となっており、上の階は付け柱でアクセントが付けられ、その間に柱で支えられた窓が開かれている。屋根の上には屋根裏部屋の他に、内部の美しい螺旋階段がそこまで続く小塔が見える。

この非常に古い建物に付けられたコルフという名前が、コンタリーニ家がこの島コルフ[Corfu'――現ケルキラ島]で行っていた商業活動を指しているのは明白である。またスカモッツィが建てた建物の《degli Scrigni》という渾名は、この一家の分家の途方もない富、即ちピアッツォーラ・スル・ブレンタ[パードヴァ北]の豪奢なヴィッラに所有する夥しい宝石に関連している。

1838年ジローラモ・コンタリーニはヴェネツィア市に貴重な絵画コレクションを残し、アッカデーミア美術館に収められた。」
  ――E.&W.Eleodori 『大運河』(1993)より

この建物について『ヴェネツィアの邸館(Palazzi di Venezia)』(Raffaella Russo, Arsenale editore, 1998)は次のような情報を与えてくれます。

「この館もまたバルバロ館のように、時代の異なる二つの隣接し合った建物の合体の所産である。《コルフ》と呼ばれるオジーブ式の館は、1300年代末頃《金のペンチ》と渾名されたピエートロ・コンタリーニが建築を依頼し、もう一つは1609年ヴィンチェンツォ・スカモッツィの設計で始まり、1630年完成した。

17世紀の建物をゴシックの建物と統合するという案は、沢山の宴会場を利用したいという理由があった。新しい方の館の名前《degli Scrigni》はピアッツォーラ・スル・ブレンタにコンタリーニ家が所有するヴィッラに保管される宝石を収めた宝石箱に由来する。

コルフ館での記録さるべきレセプションは、パーオロ・コンタリーニがアンドレーア・グリッティ[総督、1523~39在位]の孫娘ヴィエンナと1525年結婚した時のものである。ティツィアーノはこの有名な総督を度々描いている。
ティツィアーノ画『アンドレーア・グリッティ像』[ティツィアーノ画『アンドレーア・グリッティの肖像』、ウィキペディアから借用] 盛大な宴会が何日も続いた。宗教儀式と総督宮殿での大舞踏会の後、花嫁は宝石で飾り立てた130人の貴婦人達に付き添われ、ブチントーロ船に乗り、昼間のように明るく照らされた大運河を花婿の館まで航行した。

コンタリーニ家の最後の子孫ジローラモ伯が1800年代前半に亡くなった時、館はヴェニエール家に生まれた2人の姪に遺贈された。続いて建物はマティルデ・ベルトルド伯夫人の手に渡り、今ではロッカ伯爵家の所有となっている。絵画、書籍、写本の類の貴重なコレクションは、アッカデーミア美術館とサン・マルコ図書館(Biblioteca marciana)で各々保管されている。」
 ――R.Russo『ヴェネツィアの邸館』(1998)より
  1. 2010/06/19(土) 00:01:38|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
  3. | コメント:2
<<ヴェネツィアの建物: マイネッラ館、ロレダーン・デッランバッシャトーレ館、モーロ館 | ホーム | 文学に表れたヴェネツィア――ジャン=フィリップ・トゥーサン>>

コメント

とても魅力的な記事でした。
また遊びに来ます!!
  1. 2014/06/07(土) 03:26:17 |
  2. URL |
  3. 履歴書の見本 #-
  4. [ 編集 ]

《履歴書の見本》さん、コメント有難うございます。
ヴェネツィア好きの私ですので、書きながら自分も楽しめるようにと題材を選んでいるつもりではあるのですが……。
  1. 2014/06/08(日) 03:03:16 |
  2. URL |
  3. ペッシェクルード #/plE8HKU
  4. [ 編集 ]

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

カウンタ

カレンダー

07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

最近の記事+コメント

カテゴリー

ブログ内検索

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

過去ログ

フリーエリア