イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: コンタリーニ・ファザーン館

前回書きましたコンタリーニ・ファザーン館について、『ヴェネツィアの邸館(Palazzi di Venezia)』(Raffaella Russo著、Alsenale Editrice, 1998)は、『大運河』(1993)とは異なった事を記述しています。
コンタリーニ・ファザーン館[中央、三連窓の狭い建物がコンタリーニ・ファザーン館]  「1450年頃に建てられた、この小さなゴシック様式の邸宅は、デズデーモナの家として人口に膾炙した伝説でよく人々の口に上る。一方オテッロの家はカルミニ広場(C.dei Carmini)[サンタ・マルゲリータ広場の傍]のグオーロ館(P.Guoro)[2615番地]と同定されている。多分グオーロという姓がその音の類似性からモーロという姓と混同された。

事実キプロス島の副王だった貴族のクリストーフォロ・モーロとオテッロの身元確認が提示された。彼は1408年ヴェネツィアへの帰還途中、妻を亡くし、数年後《白い悪魔》と渾名されたドナート・ダ・レッゼ(Donato da Lezze)の娘と再婚した。その渾名からジャンバッティスタ・ジラルディ・チンツィオ(Giambattista Giraldi Cinthio[Cinzioとも])が、彼の小説集『Gli Hectatommithi[1565――Ecatommitiとも]』の中で、デズデーモナというヒロインの名前を作り出し、そこからシェイクスピアが1602年の彼の悲劇のインスピレーションを得た。

こうしてキプロスの司令長官として出陣した雄々しき勇士、オテッロと呼ばれた1ムーア人が嫉妬からヴェネツィア貴族の娘、妻のデズデーモナを殺害するに至るという伝説が形作られていった。しかしダ・レッゼ夫人は首を絞められたのではなかった。

オテッロとデズデーモナは後に、この2人のように13歳の年齢差がある、1535年に結婚したニコーラとパルマ・クェリーニと同定された。ニコーラは兵士であり、肌が黒かったとまことしやかに言われている。と言うのは当時ヴェネツィア人にムーア人の血統の者が沢山おり、1902年にもクェリーニ家に肌の黒い者が生存していた。

幸福な夫婦生活の数年後、ニコーラはトルコとの戦争に駆り出され、長期に渡って家を留守にしていたため、、激しい嫉妬に苛まれ、妻を虐待し始め、挙句の果て、妻が実家に逃げ帰ってしまった。直ぐに両親は、ニコーラが妻の首を絞めようとしたとして訴えた。しかし罪は軽く、ヴェネツィアに呼び戻された。20年後人手に掛かって死んだ。

ファザーンという渾名が古い名前に付けられているのは、雉狩りに大変な情熱を持っていた館の持主に由来するのは大いにあり得ることである。」
  ――R.Russo『ヴェネツィアの邸館』(1998)より

山下史路著『フィレンツェの高校生』(新潮社、1994年1月20日発行)を読んだことがあります。著者はこの本の《(21)トティはオテッロの末裔だった》の章で、ヴェネツィアで友人になったダル・モーロ夫妻のことにふれています。「妻のトティの先祖はヴェネツィアのドージェ(国家元首)を勤め、シェイクスピアのオリジナル『オテッロ』のモデルになった家系だったらしい」という言葉を聞いて、著者のオテッロとデズデーモナの調査が始まります。

この夫妻の夫の姓は《ダ・モーロ》、夫人の姓は《モーロ》で、この《モーロ》が第67代総督[1462~71在位――モーロ家唯一の総督]クリストーフォロ・モーロに繋がり、このモーロがシェイクスピアのオテッロになった、と。

英国作家ジェイムズ・モリスが書いているそうですが、モーロ家の家紋の黒苺の実は伊語で mora[桑の実の意もある]で、これが訛ってモーロになったのではないか、この家紋の黒苺はサン・ジョッベ教会の総督の墓の周囲にも彫られているそうです。

『オセロ』(三神勲訳、角川文庫、昭和47年8月30日発行)の第3幕第3場の終りの方で、イアーゴの科白に、「いや、いや、どこまでも慎重になさいまし。まだなにも見たわけではございません。奥さまはまだ潔白かもしれませんのであります。ただちょっと伺いたいことがございますが、ときおり奥さまが苺(いちご)の模様のハンカチをお持ちになっていたのをごらんになりませんでしたか?」と。

アルヴィーゼ・ゾルジ著『大運河』の中に、ロードン・ブラウンの説で、同じモーロ一族のロレンツォ・モーロの息子クリストーフォロがあり、彼は1505年ヴェネツィア副官としてキプロス[伊語Cipro]島に派遣され、3年後キプロスから帰国途中、妻を亡くした。鰥夫となった彼は1515年、デモーニオ・ビアンコ(悪魔的に白い)と呼称されたドナート・ダ・レッゼの娘と再婚した、という。

山下さんはこのロードン・ブラウン説を取っておられます。上記したカルミニ広場の《グオーロ館》の説ではなくロードン・ブラウン説が、現在では専門家の間で定説になっていると著者は力説されています。
  1. 2010/07/03(土) 00:03:07|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
  3. | コメント:2
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コメント

こんばんは! 暑い毎日をバタバタと過ごし、お邪魔する気持ちの余裕がなく
失礼しておりました。
オテロに因むお話、興味深く、下の記事も拝見して来ました。
実はクリストフォロ・モーロが「キプロスの副王」であったと云う言葉にちょっと
注意を引かれたのでした。 と云うのも、カステル・フランコのジョルジョーネの
祭壇画の注文主、トゥーツィオ・コスタンツォについて調べた時に、
彼の父親ムーツィオがキプロスの副王に1462年に任命されていて、
トゥーツィオもそれを引き継ぐ形(多分)で、自分の息子にその権利を与える様、
セレニッシマに交渉したような様子を読みました。まぁ、結局息子は早く亡くなったのでしたが。
時代が重なるのですが、クリストフォロ・モーロは、副王だったのでしょうか。
  1. 2010/07/07(水) 22:57:45 |
  2. URL |
  3. shinkai #-
  4. [ 編集 ]

shinkai さん、コメント有り難うございます。
総督のクリストーフォロ・モーロ家の一分家だと思われますが、同じような時代に
同姓同名の人がいたということだと思われます。しかし著者が異なると書く内容も
少しずつ違うようです。luogotenente も副王だったり副官だったり。PCで
調べてみると、デズデーモナの家が、Da Lezze 家だったり Brabanzio 家だったり。
年代も正確には少しずつ違うようですが、クリストーフォロがヴェネツィアに帰国
途中に妻を失ったというのは同じでした。
  1. 2010/07/08(木) 15:25:30 |
  2. URL |
  3. ペッシェクルード #/plE8HKU
  4. [ 編集 ]

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Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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