イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――シェイクスピア

ウィリアム・シェイクスピア(1564.4.26ストラトフォード・アポン・エイボン~1616.4.23同)は、当時の大国であったヴェネツィア共和国に取材した戯曲を数編書いています。『ヴェニスの商人』『オセロ』『ロミオとジュリエット』『ヴェローナの二紳士』『じゃじゃ馬馴らし』です。

『オセロ』(三神勲訳、角川文庫、昭和47年8月30日発行)では、第一幕はヴェネツィアの出来事としてト書きに「ヴェニス、街上」「ヴェニス、他の街上」「会議室」とあり、ヴェネツィアで劇は進行しますが、科白の中にはヴェネツィアであることの文言は登場しません。
『オセロ』と『ヴェニスの商人』また『ヴェニスの商人』(福田恒存訳、新潮文庫、昭和42年10月30日発行)を読んでも、科白の中にヴェネツィアの地名は一切登場しませんでした。それはシェイクスピアが一度としてヴェネツィアに赴いたことがない故と思っていました。

「第一幕第三場
ヴェニスの町中、シャイロックの家の前
バサーニオーとシャイロックが出てくる。

シャイロック  三千ダカットか――ふむ。
バサーニオー  そうだ、期間は三月。
シャイロック  三月か――ふむ。
バサーニオー  その責任は、さっき言ったように、アントーニオーが負ってくれる。
シャイロック  責任はアントーニオーが負ってくれる――ふむ。
バサーニオー  おれを助けてくれるのか? おれの望みをかなえてくれるのか? さあ、返事を聞かせてもらいたい。
シャイロック  三千ダカットを三箇月――で、アントーニオーが責任を負ってくれるとな。
バサーニオー  さあ、その返事を。
シャイロック  アントーニオーはいい人だ。
バサーニオー  そうでないという噂を一つでも耳にしたことがあるかね?
シャイロック  ほい、なんの、いや、とんでもない……いい人だと言ったのは、つまり、あの人の支払能力は認めるという、その私の気もちは解ってもらいたかったまでの話さ。だが、その財産は目下のところ仮定の状態にある……トリポリスに一艘、西インドに一艘、それに取引所で聞いた話では、三艘目をメキシコに、四艘目はイングランドに出しているとか、いや、そのほかにも、やたらにあちこちばらまいているらしい。しかしな、船はただの板ですぜ、船乗りはただの人間だ――おまけに陸の鼠に海の鼠、陸の盗人に海の盗人――海賊のことさ――危険はまだある、波、風、暗礁というやつだ……いや、それはそれ、あの男なら間違いはありますまい。三千ダカットか――どうやら証文頂戴しておいてもよさそうだな。
バサーニオー  太鼓判をおすよ。
シャイロック  おすときは、自分でおしますさ。それがおせるように、よく考えてみようというわけだ――アントーニオーと話ができますかな?
バサーニオー  よかったら、一緒に食事しようじゃないか。
シャイロック  (傍白)ふん、豚のにおいを嗅ぎに出かけるのか。お前さんたちの預言者、例のナザレ人が悪魔を閉じこめたという、その豚の肉を食いにな……なるほどお前さんたちと売り買いもしよう、話もしよう、連れだって歩きもしよう、そのほかなんでも一緒にやろう、が、飲み食いはごめんだ、並んでお祈りが出来るものか……(声高く)何かあったのかな、取引所に? 誰だ、あそこにやってくるのは?」
 ――『ヴェニスの商人』(福田恒存訳、新潮文庫、昭和42年10月30日発行)より

事ほど左様に、ヴェネツィアの地名は出てこないのですが、そこにはある秘密がありました。というのは鳥越輝昭著『ヴェネツィア詩文繚乱――文学者を魅了した都市』 (三和書籍、2003年6月30日発行)を読んでその謎が解けたのです。

福田恒存は日本の読者には理解不能として《リアルト》という言葉を《取引所》と意訳したのだそうです。当時のイギリスではヴェネツィア共和国のリアルトは世界に冠たる取引所として名を馳せていたのでしょう。1900年代の日本では、世界に数多ある観光地の一つでしかなかったということでしょうか。

他の訳本も調べてみますと、筑摩書房『世界文学全集』の菅泰男訳は《取引所》、岩波文庫・中野好夫訳(1973年3月16日改訳)は《取引所》に《リアルトー》とルビ付き、角川文庫・河合祥一郎新訳では《取引所》で脚注に次の文言があります。「《取引所》と訳したが、原文は《リアルトー》。イタリア、ヴェニスリアルトーとその周辺の地域からなる商業地域を指す。取引所があった。リアルトー島とサン・マルコ島を結ぶ大理石のアーチ橋であるリアルトー橋は1590年に造られた。」と。

また近年マイケル・ラドフォード監督、アル・パチーノ主演の映画『ベニスの商人』でも、アル・パチーノが《リアルトー》と発音しても、字幕スーパーには《取引所》とありました。この演劇はシェイクスピアのユダヤ人に対する偏見が強く、転んでも只では起きないヴェネツィア商人としては少々愚かな人物としてヴェネツィア商人が描かれ(ヴェネツィア共和国が世界に冠たる経済大国に成長したのは、こんな軽率なアントニオー等いなかったからではないでしょうか)、私にはもの足りないのですが、アル・パチーノがシャイロックの『ベニスの商人は』大変楽しめました。

経済至上主義のヴェネツィア共和国政府[この国でこの演劇のインチキ裁判が通用すると作者は思ったのでしょうか]は、地中海世界でのユダヤ人の経済的パイプを利用したいと思ったのか、1516年世界で初めて彼らに公式に定住を許します。ヴェネツィアを形成する島の数には限りがありますが、まだ造成されていない島ではなく、キリスト教徒との軋轢のないよう押し込めるような形にして、一つの島をユダヤ人に提供しました。本土と違い、ヴェネツィア人がやったように住むために島を造成するのは、定住しないユダヤ人には難しい事だったでしょう。

その島では鋳造(gettare)が行われており、その地はジェット(getto)と呼ばれていたそうですが、ユダヤ人はそれをユダヤ語式にゲットと発音し、ヴェネツィア人の方がそれに合わせてgheto(伊語はghetto)と綴られるようになったようです。他のヴェネツィア人の島との交流は制限が厳しかったと思われますが、自分達で住めるように整備したゲット内では、教会を作ったり自由だったように想像されます。

噂を聞いてかユダヤ人が蝟集してきて、vecio、novo、novissimo と彼らの居住区域は増え、地盤の関係で3~4階が普通のヴェネツィアで最高9階まで高くなった建物が残っています。サンタ・フォスカ広場(C.S.Fosca)のサンタ・フォスカ橋の拳骨戦争にも、ニコロッティの一員としてカステッラーニとの殴り合いに参加するようになるまでヴェネツィアに溶け込んでいったようです。
ヤーコポ・デ・バルバリの地図(1500)バルバリの地図からゲットの拡大[左、ヤーコポ・デ・バルバリのヴェネツィア図(1500年刊)、右、ゲット部分の拡大図(ウィキペディアから借用)] ヴェネツィア共和国がユダヤ人の定住を正式に許したのが、1516年。このバルバリの地図では1500年には既に高い建物でゲットが囲まれています。この年代の違いの意味とは? ―2013.09.03日追記。
  1. 2010/07/10(土) 00:00:34|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
  3. | コメント:5
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コメント

こんばんは! 遂に「ユダヤの商人」に会う事が出来ました。有難うございます。
アル・パチーノの映画も大変面白かったですが、こうして戯曲を読ませて頂くと
こちらもやはり大変興味のある台詞が並びますね。
内心蔑みつつも、その財力を当てにする、せざるを得ない商人の世知辛い切なさですね。

リアルト、ヴェネツィアの名が登場しない事も知りませんでした。「取引所」があった事は
まさにそうなのですが、当時の情報がいかに限られていたか、ですね。
と、拳骨橋の逸話についても、またチャンスの時にお願いいたします。 これについても
もまだ知らないのです。

下のキプロスの luogotenente と教えて頂いて納得しました。有難うございました。
  1. 2010/07/09(金) 22:15:13 |
  2. URL |
  3. shinkai #-
  4. [ 編集 ]

shinkai さん、コメント有り難うございます。
拳骨橋で有名なのは、先ずサン・バルナバ広場の ponte de Pugni、駅に行く
広い通り脇のサンタ・フォスカ広場の ponte S. Fosca 、この二つには橋の上
に足形が記してあります。私の知るもう一つは、メルチェリーア通りのサン・
ズリアーン教会裏の ponte de la Guerra(標識では Guera だったと思います)
が、西組と東組が闘った場所だと思います。
2008.05.02日と2008.05.09日の「八百屋さんと拳骨橋」と「拳骨橋(2)」
http://pescecrudo.blog122.fc2.com/blog-date-200805.html
に多少書いていますのでご覧になってみて下さい。
  1. 2010/07/10(土) 04:01:43 |
  2. URL |
  3. ペッシェクルード #/plE8HKU
  4. [ 編集 ]

お久しぶりです。

私は、シェイクスピアのイタリアを舞台にした作品に、彼は何故こうもイタリアを取り上げるのものなのか、彼の心情が未だに謎なのです。
勿論、彼独特の皮肉精神というもの、ジューに対する意識みたいなものは、当然あるのでしょうが、それだけとは思えないんです。ある意味イギリスにはないものを羨望していたのではないかとも感じてしまうんです。
そこいら辺は、ゲーテなどもそうなんですよね。しかしゲーテは率直にイタリアを賛美しています。

シェイクスピアのイタリアに対する想い、どう感じられますか。

hih
  1. 2010/07/10(土) 13:54:51 |
  2. URL |
  3. Demee #-
  4. [ 編集 ]

DEMEE さん、お久し振りです、コメント有り難うございます。
私の手に余るご質問ですね。でも考えてみました。彼のイタリア物は古代ローマ
の「ジュリアス・シーザー」や「アンソニーとクレオパトラ」以外は書きました
ように、ヴェネツィア共和国に取材した物です。当時の世界にとってはヴェネツィア
共和国は、或は現代のニューヨークみたいな感じかも知れないと思ったりします。
彼自身も自国の事だけでなく、「ハムレット」もデンマークの話なので、国外に
目が向いていたのかも、と思います。
あの当時スペインに次いで英国もユダヤ人に対して酷い偏見・差別が合った筈です。
イギリスは科白劇です。イタリアはアクションを重視しました。コンメーディア・
デッラルテはラッツィと言われた即興的な芸でヨーロッパ中を回り、土地の人々に
受け入れられました。
ピッコロ座のストレーレルがコメディ・フランセーズを演出した時、コンメーディア・
デッラールテの影響の下に書いたモリエールの劇を演出し、役者にコンメーディア
の芸を仏人に求め、彼らが出来ないので大変苦労したと読んだことがあります。
  1. 2010/07/10(土) 16:41:09 |
  2. URL |
  3. ペッシェクルード #/plE8HKU
  4. [ 編集 ]

そうですかぁ...........、
そうですよね、古代ものを除くとヴェネチア。
そこで当時のヴェネチアの状況。

一つ学習させていただきました。
ありがとうございました。

hih
  1. 2010/07/12(月) 12:20:18 |
  2. URL |
  3. Demee #-
  4. [ 編集 ]

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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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