イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――エズラ・パウンド(1)

ピエール・パーオロ・パゾリーニの最後の映画となった『ソドムの市(Salo` o le 120 giornate di Sodoma)』(1976年日本公開)は、マルキ・ド・サドの小説『ソドムの120日』を元に、第二次世界大戦末期(1944年)ムッソリーニがナチス・ドイツに助けられ、ガルダ湖畔のサロに作った通称サロ共和国に舞台を設定して制作された映画でした。

4人のファシストの恐るべき暴虐の数々は、見ていて気分の悪くなるものでしたが、この映画の中でパゾリーニは詩人として尊敬していたエズラ・ウェストン・ルーミス・パウンド(1885.10.30アイダホ州ヘイリー~1972.11.01ヴェネツィア)の詩集『カントーズ(Cantos)』(最初の3篇の発表は1917年)の第九十九歌の朗読を流したのだそうです。この文を書くに当たって再度映画をビデオで見てみました。日本公開の科白は英語版でしたが、後半にそれと思しき場面がありました(詩の訳の字幕はありません)。

本人はグラムシの影響を受け、また反ファシストのパルチザン活動をしていた弟グイードを持つパゾリーニが、ムッソリーニの思想を是とし、反米宣伝のラジオ放送まで流し、ファシストに協力したパウンドの詩に夢中になったのは何故だったのか私にはよく分かりませんが、《ダンテ・ジョイス》流のアヴァンギャルドな詩編に彼が、政治とは別の次元で取り込まれたに違いないのは、雑誌『ユリイカ』1972年11月号(vol.4-13)の《エズラ・パウンド特集》を読むと納得出来そうでした。
『ユリイカ』『現代詩手帳』平成10年7月1日発行の雑誌『現代詩手帖 1998年7月号』(第41巻第7号)は、《パゾリーニ特集》を組んでいました。1967年イタリアのRAIの制作した番組のテープから起こされた対談『パウンドとパゾリーニ』が翻訳掲載されています。YouTube にその録画の一部があります: パゾリーニ・インタヴューをどうぞ。

当時パゾリーニは45歳、ヴェネツィアに隠棲していたパウンドは82歳。敬愛する先輩詩人に発するパゾリーニのインタビューは初々しく、新鮮な感じでした。彼のパウンドに対する思い入れが理解され、私は伊語仲間達と訳し合った、彼が育ったカザルサのあるフリウーリ地方を歌った詩やTVで見たフィルム『パゾリーニ・ファイル』を思い出し、感動が蘇る思いでした。
エズラ・パウンド世界名詩集大成第11巻 アメリカ年表によりますと、パウンドは1908年22歳の時ヨーロッパに渡り、ヴェネツィアには数ヶ月淹泊したとあります。この時彼の処女詩集『A Lume Spento(消えた光に)』をヴェネツィアで初出版したのでした。その結果が『キャントゥズ(Cantos――canto(カント)は伊語で歌の意)』第三歌でヴェネツィアを歌うことになったのでしょうか。

キャントゥ Ⅲ
私は税関(ドガナ)の階段に座(すわ)った、
ゴンドラが余りに高価だったので、あの年は、
それに「あの娘達」もいなかった、一つの顔だけがあった、
二十ヤード先の櫓櫂船俱樂部(ブッチェントロ)で流行歌「ストレッティ」をわめいていた。
それからモロシニ宮殿では、あの年、照らし出された横梁があった、
それからコレの家には孔雀(くじゃく)がいた、恐らくいたであろう。
    神々が淡青の空中に漂う、
晴やかな神々とタスカニー人は露が下りる前に戻る
光は、しかも最初の光はいつも露が落ちる前に。
半人半羊(バニスコス)の神々、それから槲(かしわ)からは木の精(ドリュアス)、
又林檎の木からは果樹の精(マリッド)、
森中を木々の葉は樣々な声で充()たしている、
囁きながら、又雲は湖上に低くたれ、
そして雲の上には神々がいる。
そして水中には白い巴旦杏(はたんきょう)色の泳ぐ人達、
銀のような水は上向きの乳首に光沢をつける、
   ポッジョが言ったように。
トルコ玉の中の緑の靜脈(じょうみゃく)、
或は杉の木の下を登る灰色の階段。 ……」
  ――『世界名詩集大成 第11巻 アメリカ』の中のエズラ・パウンド『キャントゥズ(Cantos)』(岩崎良三訳、平凡社、昭和34年5月20日発行)より。

第二次世界大戦後、アメリカのセント・エリザベス病院に精神異常者として13年間収監された後、釈放されたパウンドは再びイタリアへ戻り、娘のいる南チロルのブルンネンブルクをはじめ、ローマ、ジェーノヴァ東のリヴィエーラ東海岸のゾアッリやラパッロ、そしてヴェネツィアと渡り住みました。

彼は精神的に衰弱し、妻と別れ、恋人だったヴァイオリン奏者でヴィヴァルディ研究者のオルガ・ラッジとの生活の道を選びます。彼女は1961年から彼が死に至る(ヴェネツィアの病院での死)までの11年間、ヴェネツィアや時にラパッロで彼の面倒を見たそうです。オルガ・ラッジについては次のブログヨシフ・ブロツキーも参考までに。

彼らのヴェネツィアの家は、ドルソドゥーロ区のフォルナーチェ運河(Rio de la Fornace)に架かるメッゾ橋(P.de Mezo)傍のカ・バラ運河通り(Fond.Ca' Bala`)から入ったクェリーニ通り(Cl.Querini)の奥の252番地で、彼がそこに住んでいたことを示す次のような碑が掲げられています。
エズラ・パウンドの碑サン・ミケーレ島墓地案内図左、ドアには現在でも《オルガ・ラッジ》の名刺が貼り付けてあります。右、墓地地図[2012.08.10追記] 彼の墓はサン・ミケーレ島墓地の福音派の区域(Recinto evangelico)にあります。彼より26年長生きした恋人オルガ・ラッジも彼の傍に埋葬されたそうです。彼の墓の案内は次のサン・ミケーレ島の墓地事務所で頂いた右の地図をご参考までに。哲学者・前ヴェネツィア市長マッシモ・カッチャーリさんが墓地で語るエズラ・パウンド: YouTubeMassimo Cacciariもどうぞ。

[追記=2011.06月ボローニャに行ってきました。マッジョーレ大通りのサンタ・マリーア・デイ・セルヴィ教会からサント・ステーファノ通りのサント・ステーファノ教会に向かう途中の脇道ボルゴヌオーヴォ通りで下のプレートを見付けました。
ピエール・パーオロ・パゾリーニの生家『生命ある若者』「この家で、1922年3月5日、詩人・作家・映画監督であったピエール・パーオロ・パゾリーニが生まれた」ボローニャ市2004年6月――Due Torri のこの街が、ヴェネツィアのように大変親しいものに感じられるようになりました。] 写真右はパゾリーニ映画に夢中になっていた頃、買った本『生命ある若者』(米川良夫訳、冬樹社、昭和四一年八月五日)です。
  1. 2010/08/07(土) 00:03:41|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
  3. | コメント:2
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コメント

初めまして。ベネチアには1度切り、たしか83年に行ったことがあります。初めてのイタリアですっかりイタリアに惚れてしまい、あちらで仕事ができないかと探しましたが、諦めました。
それにしてもびっくりです。ここまでくるとほとんどブログというよりも研究課題といってもいいんじゃないでしょうか。これからゆっくり時間をかけて読ませて頂きます、よろしくお願いいたします。
  1. 2010/08/11(水) 12:35:35 |
  2. URL |
  3. 川越 #uvrEXygI
  4. [ 編集 ]

川越さん、コメント有り難うございます。
川越さんが渡伊された83年は、正にイタリアン・シンドロームの始まった頃
だったのではないでしょうか。私がイタリアに行ったのは、94年に皆が行くからと
飛行機に乗った感じでした。しかし、ヴェネツィアに行って、頭の中が丸で変わって
しまいました。今ではディズニーランド風の町に見えますが、街の外れを歩いている
と、この町が背負ってきた長い歴史を感じてしまいます。サン・マルコ広場から離れた
場所を歩いてみて下さい。私の場合、また戻って来ようという気になりました。
  1. 2010/08/11(水) 14:39:16 |
  2. URL |
  3. pescecrudo #/plE8HKU
  4. [ 編集 ]

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Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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