イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――パウンド(2)とサン・ミケーレ島(墓地)

前回最後に掲げたヴェネツィア市の碑文は、「詩歌の巨人エズラ・パウンドは、決して消えることのない、ヴェネツィアへの愛の中で、この家に半世紀に渡って住んだ。ヴェネツィア市」といった内容です。

2009.11.07日のブログでもパウンドの恋人オルガ・ラッジについてブロツキーが書いていることに触れています。最近出版されたジョン・ベレントン著『ヴェネツィアが燃えた日――世界一美しい街の、世界一怪しい人々』(高見浩訳、光文社、2010年4月25日発行)が、パウンドやオルガの事に大変詳しく言及しています。
ヴェネツィアが燃えた日セント・エリザベス病院に収監中の1949年に、第一回のボーリンゲン賞を受けた『ピサ詩章』(1948、『カントーズ(Cantos)』第七十四~八十四篇)は傑作の誉れが高いそうです。『ユリイカ 1972年11月号』(vol.4-13)《エズラ・パウンド特集》の中でイタリアのノーベル賞詩人エウジェーニオ・モンターレが《エズ叔父さん》と題して親しみを込めて書いています。その『ピサ詞章』の中にヴェネツィアを歌ったものがありました。その一部の伊語訳を次に掲げてみました。
「……
   sotto le due ali della nuvola
come di meno e di piu` di un giorno
accanto alle colonne di pietra lisce come sapone dove San Vio incontra il Canal Grande
fra Salviati e la casa che fu di Don Carlos
dovrei buttare tutto in acqua ?
le bozze “A Lume Spento”
e accanto alla colonna del Todaro
dovrei traghettare dall'altra parte
o aspettare 24 ore,

   libero allora, in cio` la differenza
nel gran ghetto, lasciato in piedi
col nuovo ponte dell'Era nel luogo del vecchio brutto edificio
Vendramin, Contarini, Fonda, Fondecho
e Tullio Romano scolpi` le sirene
come spiega il vecchio custode: cosi` che da
allora nessuno e` stato capace di effigiarle
per lo scrigno di gioielli, Santa Maria Dei Miracoli,
Dei Greci, San Giorgio, il luogo coi teschi
nel Carpaccio
e sulla fronte a destra entrando [fronte(前)ではなく、fonte(洗礼盤)では?―英文より]
vi sono tutte le cupole d'oro di San Marco
Arachne, che mi porta fortuna, tessi la tela su quella corda
della tenda
zio George nella abbazia Brassitalo
voi che passate per questa via:
“D'Annunzio abita qui ?”
disse la signora americana, K.H.
“Io non lo so” disse la vecchia veneziana,
“questa lampada e` per la vergine”
……」
  ――『Canti pisani(Canto LXXVI)』(Alfredo Rizzardi訳、Guanda、1948発行)より(彼がヴェネツィアで処女出版した詩集『A Lume Spento』の名前も登場します)
サン・ミケーレ・イン・イーゾラ教会 サン・ミケーレ島墓地案内図墓地地図サン・ミケーレ島(Isola di S.Michele)の墓地事務所で頂いたこの案内図を見ますと、色々の人の墓に辿り付けそうです。上記のヨシフ・ブロツキーの墓は、前掲の『ヴェネツィアが燃えた日』によりますと、ヴェネツィア第2代総督マルチェッロ・テガッリアーノから続く家系の現ジローラモ・マルチェッロ伯爵(ブロツキーはヴェネツィアに到来の度、マルチェッロ家のやっかいになっていたそうです)が画策し、ニューヨークに死んだ彼をヴェネツィアで眠るように計らったそうです(私の長い間の疑問が解けました。文学に表れたヴェネツィア―ブロツキー(1)も参考までに)。

2009.10.31日に書きました緒方惟直の墓は左上隅の2°(第2チェゼーナ)と記された区画内の右下隅の壁面にあります(ヴェネツィアと日本との関係(2)墓参を参照して下さい)。ヴェネツィアに生まれヴェネツィアで死んだ音楽家エルマンノ・ヴォルフ=フェッラーリ(1948.01.21)とルイージ・ノーノ(1990.05.08)の墓もあります。2009.06.06日に書いたイギリス人作家フレデリック・ウィリアム・ロルフの名前も見えます。

ジューリオ・ロレンツェッティはヴェネツィア生まれの高名な美術史家で、このブログで度々引用している『ヴェネツィアと入江(Venezia e il suo estuario)』(1926)の著者です。左上の第2チェゼーナ(2°)には、ヴェネツィア生まれの喜劇作家ジャチント・ガッリーナと喜劇役者チェースコ・バゼッジョの名も見えています。(Sir Henry)Ashley Clarke は駐伊イギリス大使で、1966年の大洪水のニュースを受けてヴェネツィア救助の《ヴェニス救難基金 The Venice in Peril Fund)》の創設者だとか。Helenio Herrera はアルゼンティン出身のサッカー選手で、ヴェネツィアで人気のあったサッカー監督だったそうです。

ナポレオンの命で、サン・ミケーレ島とサン・クリストーフォロ・デッラ・パーチェ島の間の運河を埋め立てて最終的に一つの墓地島とする前、先ずサン・ミケーレ修道院は彼の命令で1810年廃止され、その後オーストリア占領時代、政治犯の監獄に作り替えられました。そして最初総督宮殿のピオンビの獄に繋がれていたシルヴィオ・ペッリコはピエートロ・マロンチェッリとともにこの牢獄に移し変えられ幽閉されました(墓地入口にその事を示すプレートがあるそうです)。カルボナーリ(炭焼き党)としてイタリア独立のために奮闘した彼の『我が獄中記(Le mie Prigioni)』は、独立期のイタリアを大変鼓舞したと言います。

この島は元々は Cavana de Muran と呼ばれ、悪天候時、船を避難させる係留場として機能していたようですが、1212年、カマルドリ会[1012年聖ロムアルドゥスがアレッツォ山中カマルドリに創設したベネディクト会の一会派]修道僧達がここでの生活を始めたそうです。

14世紀半ば、偉大な地図製作者マウロ修道僧(Fra' Mauro)がここで平面球形図を製作し(マルチャーナ図書館に現存しているそうです)、この事に関してオーストラリアの作家ジェイムズ・カウアンが『修道士マウロの地図』(小笠原豊樹訳、草思社、1998年4月1日発行)と、彼の事をフィクションの形で発表しています(2010.08.14日に文学に表れたヴェネツィア―ジェイムズ・カウアンを書きました)。またここの修道僧だったマウロ・カッペッラーリは1831年、教皇グレゴリウス16世に選ばれたそうです。

サン・ミケーレ島墓地(Cimitero)を訪ねるには、電車駅サンタ・ルチーア駅前広場の左前方、スカルツィ橋傍の停留所から42番(41番は逆方向)のヴァポレットに乗船します。Guglie、Tre Archi、S.Alvise、Orto、Fondamente Nove、Cimitero と30分弱で到着です。一番安く墓地に行くには、フォンダメンテ・ヌオーヴェ駅まで歩き、そこから次のチミテーロ駅と指定し、往復を買うと格安の筈です。一時間(?)程の往復であれば、片道券でOKかもしれません(高いヴァポレット乗車券が最近また更に0.5ユーロ値上がりしたそうですから)。

墓地では気軽に尋ねると質問に応じてくれますし、事務所の人が時間さえあれば、目指す墓に案内してくれるかもしれません。ガラスの島ムラーノに行くのも、フォンダメンテ・ヌオーヴェから二つ目のムラーノの Colonna 駅までチケットを買うのが格安のようです。

追記=墓地案内の中にある Tramontin 家は多分今でもドルソドゥーロ区でゴンドラを作り続けている、1884年以来のsquero(ゴンドラ造船所)の家系ではないでしょうか。
  1. 2010/08/14(土) 00:01:37|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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