イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: ジュスティニアーン館他

モーロ館を過ぎるとマルパーガ運河(Rio del Malpaga)を挟んで、ステルン館(Palazzetto Stern)があります。この館はごく最近ホテル・ステルンとして開業を始めたようです。晴れた朝、前庭で大運河を眺めながら朝食を摂るのは快適そうでした。『大運河』(1993)は次のように書いています。
ステルン館ホテル・ステルンの前庭 「館前に庭を備えた楽しい雰囲気のネオ・ゴシック様式の建物。18世紀末~19世紀初頭、ステルン夫人のためにジュゼッペ・ペルティが建てた。この地区には1400年代の建物ミキエール・マルパーガが建っていた[この館は崩れ落ちた]」。
ステルン館、レッツォーニコ館等すぐ脇にレッツォーニコ停留所とトラゲットの乗場があり、コンタリーニ・ミキエール館(P.Contarini Michiel)があります。『大運河』(1993)の記述は次のようです。

「1500年代の隣合う二つの建物で、次の世紀には改装された。高さがそれぞれ異なっており、両者とも内部に向けて改築されたピアーノ・ノービレの部屋に多連窓が設置されている。」

右側のサン・バルナバ運河(rio de S.Barnaba)を挟んで、最近修復なった、現在では《18世紀美術館》となっている壮大なレッツォーニコ館(Ca' Rezzonico)があります。この館については、2007.12.25日に書きましたCa' Rezzonico, Museo del Settecento venezianoを参考までに。その先は1500年代のバルコニー付きの三連窓の建物、ベルナルド・ナーニ館(P.Bernardo Nani)です。ベルナルド通り(Cl.Bernardo)を挟んで、右隣はジュスティニアーン・ベルナルド館(P.Giustinian Bernardo)です。『大運河』(1993)は次のように述べています。
ジュスティニアーン館他「3階の部分が未完のまま現在に至った1600年代の建物。入口玄関が二つあり、アーチの高い二連窓が続くのが特徴である。現在は大学が入っている。」

更に進むとジュスティニアーン館(P.Giustinian)が人目を引きます。同じく『大運河』(1993)の縷述は以下のようです。

「15世紀後半のゴシック建築。事実、舞台装飾的効果で二つの類似した建物が隣合っている。中央の玄関はあたかも建物を二つに分ける通路でもあるかのようである。1474年頃の建設で、多分バルトロメーオ・ボーンの工房が参加したと思われる。

入り組んだアーチ模様は四弁装飾のモチーフで作られたその高度な多連窓で、実際、布告門[ボーンの建造した総督宮殿の正門]を思い起こさせる。双子の館を結び付ける中央部分は透かし細工のある、それ以外の窓より一回り大きい、素晴らしい一面窓(monofora)に特徴がある。その稜線に鋸歯模様の浮出し飾りのあるイストラ(Istria)半島石が際立つように嵌め込まれている。

内側の中庭をL字型に包み込むように、サロンの周りにすっかり植木が繁茂し、その後方までも同じように沢山の立木が生い茂っている。右側には今でも外階段が残っている。フォースカリ館(Ca' Foscari)とともにヴェネツィア大学の所在地である。

大変古い家系であるジュスティニアーン家の重要度は、ヴェネツィアにある数多い邸館で証明されるが、有名な四“福音主義者”の一つである。1171年には戦争やペストで全男性が亡くなり、家系断絶の危機に遭遇した。しかし修道士になっていた者が一人残っていた。

ヴェネツィア人は、最大家系の一つが存続の可能性がありながら継続しないことには我慢ならなかった。そのため教皇に請願書を送り、ニコロ・ジュスティニアーンの宗教上の誓約を解いてもらった。そしてこの人物はアンナ・ミキエールと結婚し、彼女はこの一家に9人の男子と3人の女子をもたらした。子供達が成人し、世帯を持つや、彼は修道院に戻った。

セレニッシマ政庁に秀抜有能な人材を送り込んだが、この一家は特別な栄誉を求めなかった。その証拠に1311年、ステーファノは総督に選出されることを辞退した。代々騎士の称号を許された5家の一つでもあった。しかし残念な事に、カルパッソ伯爵家はこれほど名誉ある特別の分家であったが、悲惨な状態に零落したために、庶民達は悪びれることもなく囁き合った、この家は騎士の黄金章を失い、二度と着章することはないだろう、と。

他の分家の経済状態は全く違っていた。オルサートには嫁にやりたい愛する娘が一人いたが、非嫡出のため、選ばれた貴族の家柄としては家系に汚点を残すと躊躇われていた。話し合いは続いたが、結論は出なかった。彼は憤慨して、娘の最高の晴着を取って来ると、その上に油を一瓶振り掛けた。そして山ほどの金貨でその染みを覆うと言った。≪お前達、もっと見たいか!≫。そして娘は受け入れられることになったのである。

この同じオルサートは、その気難しさで名を知られていたらしいが、大使としてナーポリ宮廷に赴任した。ナーポリ王は彼を困らせ、恥をかかせてやろうと、彼を引見する部屋に椅子を一脚だけ置くように命じた。オルサートは入室すると王が自分の前に跪かせるつもりであることが直ぐ分かった。多分、この見事なヴェネツィア人はきっと内心せせ笑ったことだろう。

彼は毛の密生した皮革の裏地を付けた、重くて硬い金のラメの、たっぷりしたマントを着ていた。王と話しながら、留め金が外れ、マントがずり落ちて、床にうず高く重なるのに平然としていた。それからゆっくりとその上に腰を下ろした。

拝謁が終わると彼は暇乞いをし、部屋の出口に来た時、召使いに呼び止められた。王の指示でマントを拾い、彼にそれを差し出したのである。オルサートは振り向くと尊大な態度で声高に冷やかな調子で言った。

≪ヴェネツィア大使は、床几如き物を持ち運びはしません≫。そして去った。」
  ――E.&W.Eleodori『大運河』(1993)より

追記: このジュスティニアーン館を舞台にした小説があります。『歌姫コンシュエロ』(ジョルジュ・サンド・コレクション3、4巻(上下巻)、持田明子・大野一道監訳、藤原書店、2008年5/6月30日発行)です。ジュスティニアーニ伯爵に才能を見出され、この館でデビューし、世界に羽ばたく歌手コンシュエロの物語です。この1300頁に及ぶ長編小説は、ヴェネツィア好きだったサンドの傑作と言われているそうです。次のブログも参考までにサンドとミュッセ歌姫コンシュエロ
  1. 2010/08/21(土) 00:05:23|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
  3. | コメント:0
<<文学に表れたヴェネツィア――ゲーテ(1) | ホーム | 文学に表れたヴェネツィア――パウンド(2)とサン・ミケーレ島(墓地)>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

カウンタ

カレンダー

05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

最近の記事+コメント

カテゴリー

ブログ内検索

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

過去ログ

フリーエリア