イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――久米邦武

ブログを開始し、凡そ週一ペースでヴェネツィアのあれこれを3年に渡って書いてきました。ここで初めて日本人のヴェネツィア体験記を取り上げてみます。明治初期、特命全権大使の岩倉具視が米欧を回覧した時、彼に随行してその記録『米欧回覧実記』を残した久米邦武に、日本人としてヴェネツィアについて書いた第一号の文章があることは、余りにも有名です。

大聖年の2000年末、私がド・ポッツィ広場傍の、語学校のマッシモ先生の部屋を借りた時は、アルセナーレの停留所からカ・レッツォーニコ停留所まで、CartaVenezia に登録し、ヴァポレットの定期券を購入して通学しました。朝登校時ヴァポレットに乗船すると、口に付いて出てくる言葉がありました。「水調一声、響キ海雲ヲ遏(とど)メテ瀏湸(りゅうりょう)タリ」という『米欧回覧実記』の一節です。

速く伊語が分かるようになりたいという願いの口調のいい呪文のようなものでした。意味は「水面を流れる民謡の歌声は朗々として、雲の流れさえとどめそうに響きが高い」(現代語訳『特命全権大使 米欧回覧実記 第四巻 ヨーロッパ大陸編・中』(水澤周=訳・注、慶應義塾大学出版会))と意味的には無関係です。

「《ヴェニェシヤ》府ハ我日本ニテ《ベネチヤ》トイヒシハ、卽チ比府ノコトニテ、英ニテハ《ヴェニシ》ト云、以太利東北ノ海口ナル都會ニテ、《アトリャチック》海ニ濱セル、斗出(としゅつ)ノ島ヲ聚(あつ)メテナル、島中ニ大運河ヲ回(めぐら)ス、巴字ノ如シ、是ヨリ大小ノ運河ヲ引キ、縱橫ニ交錯シ、附近ノ小島ニ連綴(れんてい)シ一府トナス、雄樓傑閣、島ヲ塡メテ建ツ、河ヲ以テ路ニカエ、艇ヲ以テ馬車ニカユ、歐洲ノ諸都府中ニ於テ、別機軸ノ景象ヲナセル、一奇鄕ナリ、名ツケテ衆島府トイフ、比都府ハ、歐洲ニテ古キ貿易場ニテ、紀元三百年ノ頃ヨリ繁盛ヲナシ、附近ノ土地ヲ占メテ、合衆政治ヲナシ、獨立ノ一國タリ、
総督宮殿サン・マルコ寺院運河と大運河からのサルーテ教会歐洲東方ヨリ、小亞細亞(エジャマイナ)、阿刺伯(アラビヤ)、及ヒ印度トノ交易ハ、地中海ヲ運シ、比ニ聚(あつ)メテ歐地ニ散ス、貿易ノ權ヲ總()ヘ、繁盛ヲキワムルコト一千年ナリシニ、葡萄牙人始メテ亞弗利加ノ航路ヲ開キ、喜望峰ヲ回リ、印度、阿刺伯ヘノ交易ヲセシヨリ、比府ノ生理頓(とみ)ニ衰ヘタリ、然レトモ、猶地中海ノ樞ヲ占メテ、利ヲ東方ニ擅(ほしいまま)ニセリ、是我邦ニ早ク《ベネチヤ》國ヲ知リシ所以(ゆえん)ナリ、
……
○比日ハ驛舍ヨリ直ニ艇ニ上ル、艇ノ製作奇異ナリ、舳首騫起(じくしゅけんき)シ、艇底円轉トシテ、舳ニ屋根アリ、中ニ茵席(いんせき)ヲ安ンス、棹(さお)ヲ打テ泛泛(はんはん)トシテ往返ス、身ヲ淸明上河ノ圖中ニオクカ如シ、市廛(してん)鱗鱗トシテ水ニ鑑ミ、空氣淸ク、日光爽カニ、嵐翠水ヲ籠メテ、晴波淪紋ヲ皺(しわ)ム、艇は雲靄杳緲(ようびょう)ノ中ヲユク、飄飄乎(ひょうひょうこ)トシテ登仙スルカ如シ、府中ノ人、音樂ヲ好ミ、唱歌ヲ喜ヒ、伴ヲ結ヒ舟ヲ蕩(うごか)シテ、中流ニ游フ、水調一聲、響キ海雲ヲ遏(とど)メテ瀏湸(りゅうりょう)タリ、旅客ノ來ルモノ、相樂ミテ歸ルヲ忘ルゝトナン、比日旅舘ニ至レハ、樂伴舘下ノ水上ニテ樂ヲ奏シテ、着府ヲ祝セリ、
……
比書庫ニ、本朝ノ大友氏ヨリ遣ハセシ、使臣ヨリ送リタル書翰二枚ヲ藏ス、其遺紙ヲ一見センコトヲ望ミシニ、挾紙ヨリ取出シテ示シタリ、皆西洋紙ニ羅甸(ラテン)文ニテ書セル書翰ニテ、末ニ本人直筆ノ署名アリ、鋼筆ニテ書セルモノナリ、岩倉大使、余ヲシテ模寫セシム、左の如シ、[署名1]一千六百十五年二月廿四日トアリ  [署名2]一千六百十六年トアリ

外ニ日本使臣書翰五葉アリ、皆橫文字ナルユエ、筆者ニ寫取(うつしと)ラシメ、贈與アランコトヲ嘱請シテ歸レリ、其五葉ノ書ハ一千五百八十五乃至七年〈我天正ノ季〉マテ、大友家ノ使臣、羅馬、及ヒ威尼斯ニ至リシトキノ往復文ナリ、比支倉(はせくら)六右衞門ハ、是ヨリ三十年モ後レテ至リタレハ、大友家ノ使臣ニハ非ルヘシ、……」
  ――『特命全権大使 米欧回覧実記 四』(久米邦武編、田中彰校注、岩波文庫、1980年8月18日発行)より
『米欧回覧実記 四』現代語訳『米欧回覧実記 4』天正の四少年遣欧使節と支倉常長の渡欧についての研究が始まったのは、ヴェネツィアの東洋学者グリエルモ・ベルシェの案内で、フラーリ古文書館に残されていた書翰等の発見が基で、彼らの事が少しずつ知られてきたことが分かります。久米の執筆時には判明していなかった支倉六右衛門の事は、例えば『米欧回覧実記』の現代語訳版の後注で次のように分かります。

「岩波文庫『米欧回覧実記 四』の田中彰氏の注によると、明治九年夏行われた明治天皇の東北巡幸の記録『東北御巡幸記』の六月二六日の記事に、仙台の博覧会場に、支倉常長が持ち帰った自分の肖像画が陳列されており、きわめて珍しいものとされたとあるそうである。支倉常長の事績は、江戸時代を通じて伊達家の秘密とされ、この時期に至って初めて明らかにされたのであろう。」
  ――現代語訳『特命全権大使 米欧回覧実記 4 ヨーロッパ大陸編・中 1871-1873』(普及版、久米邦武=編著、水澤周=訳・注、米欧亜回覧の会=企画、慶應義塾大学出版会、2008年6月20日発行)の《後注》より  
  1. 2010/10/16(土) 00:03:14|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
  3. | コメント:2
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コメント

こんばんは! 明治になっての欧米視察に出かけた時の様子なのですね。
あの時の彼らの目に写った物を想像すると、どんなにか島国の小さな世界を
振り返っただろうか、と思います。
自分がこの時代よりももっともっとたち、散々あれこれと予習をして訪れても、
やはりその印象の大きな違い、凄さに驚き呆れ果てた事を思うと、彼らの驚きは
想像に難くありません。 
読みにくい文章ですが、それにしても新しく得る知識がしっかりしている、と
流石秀才ぞろいの一行だったのだろう、と思います。
今、サン・ミケーレに眠る緒方洪庵のご子息もこの時にお出でだったのですよね?
ヴェネツィアはやはり一種の魔の都ですね。

下のヴェロニカも、頂いた本ともども読み返し、単に娼婦という言葉では現わせない、
穏やかながらも強い性格、流されない女性という印象を持ちました。
有難うございました。
  1. 2010/10/20(水) 21:13:19 |
  2. URL |
  3. shinkai #-
  4. [ 編集 ]

shinkai さん、 コメント有り難うございます。
天正の四使節といい、明治の米欧回覧使節といい、彼らの体験したことは私達が
体験する外国体験とは筆舌に尽くし難いほどの強烈な印象を与えたに違いないこと
は想像に難くないと思われます。
この原文を引用するのに非常に大変だったのは、旧字や正字をそのまま引き写す
のが苦労だったことです。例えばPC上では、「辶」などは点が一つの新字が
ほとんどです、大きな問題ではないとは言えますが。
サン・ミケーレ島の緒方惟直の墓は1873年岩倉具視の米欧回覧使節がヴェネツィア
に来た時、ヴェネツィアに日本語学校を作る話が浮上し、その結果出来た日本語
学校の第二代の先生に彼が就任した結果だったのです。
こういう話がヴェネツィアで「初めて」発生するところが、この町が「魔の都」だと
言われるところでしょうね。
  1. 2010/10/21(木) 12:47:05 |
  2. URL |
  3. pescecrudo #/plE8HKU
  4. [ 編集 ]

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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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