イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――ゲーテ(1)

ブレンネロ峠(独語風にはブレンナー峠)を下って、イタリア最大の湖ガルダ湖の船旅をしたりしながら、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749.08.28フランクフルト・アム・マイン~1832.03.22ヴァイマール)はヴェローナに着。そして馬車で道を左に取り、東のヴィチェンツァに向かいます。この町は彼が敬愛して止まなかったアンドレーア・パッラーディオ[1508パードヴァ~1580トレヴィーゾ県マゼール]が生活の本拠を置き、活躍した町です。

1786年9月19~25日この町に滞在する間、彼はテアートロ・オリンピコを始め、ヴィッラ・ロトンダ等パッラーディオの建物を見て回っています。9月22日の夜は≪オリンピア翰林院の催した会合に出席≫しています。私が天正の四少年使節の痕跡を探しに初めてテアートロ・オリンピコに行った時、少年達のフレスコ画とともにゲーテを記念したフレスコ画も残されていました。
オリンピコ劇場舞台天遣歐使節左はテアートロ・オリンピコの舞台、右は劇場前室の天正の四少年使節のフレスコ画(IAPONENSIVM LEGATISと額下にあり)、その左下に"WOLFGANG GOETHE"の文字が見えます。

ラジョーネ館の裏の方に彼が宿泊した館が残っており、その壁面に彼が留泊したことを示す碑盤が嵌め込んでありました。その直ぐ近くにはマゼラン[英式呼称―葡語フェルナン・デ・マガリャンイス]の世界一周に随行し、その記録を残したアントーニオ・ピガフェッタ(彼はビクトリア号で生還した18人の一人であり、彼の記録がなければマゼランの初世界一周の偉業の栄誉は生きて帰還した副官のものとなるところでした)の家もありました。この町は忘れられない町です。
ゲーテが宿泊した館 ピガフェッタの生家の通りピガフェッタの瀟洒な館左の館がゲーテが泊った館、次はピガフェッタの生家のある通り、そして彼の館。

隣町のパードヴァには9月26、27日と滞在していますが、『イタリア紀行』の中ではパッラーディオの事については何も触れていませんから、彼がこの町で生まれた(via dei Rogatiで)ことは興味を引かなかった(或いは知らなかった)のでしょうか。この町からヴェネツィアへは、彼は天正遣欧使節やモーツァルト等と同じようにブレンタ運河の船旅をしています。

ヴェネツィアには9月28日~10月14日滞在しています。『イタリア紀行』《ヴェネチア 1786年9月28日》の文頭で
「……――私は恐らく二十年来思い出したことのない、あの昔の玩具を心に浮べた。私の父はイタリアから携えてきた美しいゴンゴラの模型を持っていた。父はそれをひどく珍重していたが、いつか私がそれを弄ぶことを許された時などは、非常に喜んだものだ。今、ぴかぴか光る鉄板の船首や、黒いゴンドラの船体や、すべてのものが昔馴染のように私に挨拶をした。私は久方ぶりになつかしい少年時代の印象を味わうことができた。……」
と書いているように、彼はこの町に少年時代から興味を抱いていたようです。

「……大運河とそれに懸っているリアルトー大橋は容易にそれとわかった。この橋は白い大理石でできている一個の弓形のものである。橋の上から眺めおろした光景はすばらしい。運河は、各種の必需品を大陸から運んできて、大抵はここに碇泊して積荷をおろしてしまう船舶で一杯である。そしてその間をゴンドラが蠢動している。別して今日はミカエル祭であるから、えも言わず活気の横溢した眺めである。しかしこの光景をいくらかでも描き出そうとするには、私はもうすこし前置きをしなければならない。

大運河によって分たれているヴェネチアの二つの主要な部分は、たった一つのリアルトー橋によって互いに連絡されている。しかしまた一定の渡し場には渡船の備えがあって、諸所の交通に事欠くこともない。今日は着飾って黒い面被(ヴェール)をつけた婦人が、お祭のある首天使の寺院へ行こうとして、たくさん群をなして渡してもらっているので見事な風情であった。私は橋を去って、船からあがってくる人々をよく見るために、そうした渡し場の一つへ出かけて行った。その中には実に美しい顔や姿の人がまじっていた。

やがて疲れてきたので、私は狭い小路を捨てて、ゴンドラに乗った。こんどは今までとは反対に水上からの景色を眺めようと思って、大運河の北の部分を通りぬけ、聖クララ島をめぐって、潟の中に船をのり入れ、ジュデッカの運河にはいりこんで、聖マルコ広場の方まで漕ぎまわした。すると私にはたちまち、すべてのヴェネチア人がゴンドラに乗るとき感ずるように、アドリア海の支配者の一人であるかのように思えてきた。その際私は、何よりも好んでこれらの風物を物語った父のことを懐しく思い起した。私もまた彼と同じようになるのではあるまいか。……」
 ――『イタリア紀行』(上巻、相良守峯訳、岩波文庫、1942年6月1日発行)
  1. 2010/08/28(土) 00:05:14|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
  3. | コメント:1
<<文学に表れたヴェネツィア――ゲーテ(2) | ホーム | ヴェネツィアの建物: ジュスティニアーン館他>>

コメント

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
  1. 2010/08/30(月) 00:47:56 |
  2. |
  3. #
  4. [ 編集 ]

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

カウンタ

カレンダー

09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

最近の記事+コメント

カテゴリー

ブログ内検索

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

過去ログ

フリーエリア