イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――ゲーテ(2)

ヴェネツィアで彼が滞在したホテルは《イギリス女王》という名の旅館だったと、『イタリア紀行』には書かれています。そしてその訳注には「今日ではホテル・ヴィクトリアと呼ばれている」と1942年6月1日発行のこの訳書にはあります。この当時はこの名のホテルで営業していたということでしょうか。

ヴェネツィア語学校に通い始めた時、ヴァポレットのバス船の定期券を利用するために、フゼーリ通り(Rm.dei Fuseri)の ACTV の事務所(Ufficio A.C.T.V.abbonamenti)にカルタヴェネツィア(CartaVenezia)を申請し、定期券を作ってもらいに行きました。

フゼーリ橋(P.dei Fuseri)の袂(1810番地)にそれはありました。その建物の運河側の壁面に次の碑文があることが分かったのはその後のことです。即ち《GOETHE WOHNTE HIER 28 SEPT.―14 OCT.》とあり、そこがかつての《イギリス女王》館という旅館だったことを知りました。
ゲーテの碑『イタリア紀行』その後、ここの ACTV の事務所は廃止され、暫くは空家になっていましたが、最近商店が店開きをしていました。ヴェネツィアも色々と変化があるようです。そう言えば、直ぐ近くに KENZO の店があって夜もショーウィンドーが明るく、夜中の散歩でホッとするゾーンでしたが、現在ではその店もありません。

彼の《イギリス女王》館へは、サン・マルコ広場傍のオルセーオロ・ゴンドラ溜まり(Bacino Orseolo)から運河沿いに次の橋トローン(P.Tron)まで行き、左折。左角に猫ちゃんマークのセルフ・サーヴィス・レストランがある突き当たりでフレッゼリーア(Frezzeria)通りを右折して行くと道は直ぐに左へ90°曲がります。そして最初の横丁を右へ折れるとフゼーリ通りで、前方にある橋(P.dei Fuseri)左袂の建物(右袂はレストラン)がゲーテの泊った元旅館です。
モーツァルト記念碑フゼーリ通りへ右折しないで直進し、次のバルカローリ(Barcaroli)橋、左袂の建物(1830番地)は、1771年のカーニヴァルの時、少年モーツァルトが父と滞在したチェゼレッティ館で、その事を示す碑が運河側の壁面に掲げてあります。2008.12.13日に書きましたモーツァルトも参考までに。
   
「十月十日。
ようやくこれで私も喜劇を見たと公言することができることとなった。聖ルカ劇場で、今日、“Le Baruffe Chiozzotte”が演ぜられた。それはつまり《キオッツァの喧嘩口論》とでも訳さるべきものである。役者はことごとくキオッツァ[伊語キオッジャ]の住民である漁夫で、それに彼らの妻、姉妹、娘たちが交っている。これらの人々の善きにつけ悪しきにつけ慣習となっている叫喚、争論、短気、気立の善さ、愚鈍、機智、諧謔、わざとらしくない挙動――すべてがいかにも巧みに模倣されていた。

なおこの芝居はゴルドニの作である。それに私はつい昨日その地方に行ってきたばかりであって、漁夫および港の人たちの声や物腰がなお眼に映り耳に残っているので、この劇はひとしお興が深かった。個々の点に関して解らないところもあるにはあったが、しかし全体の筋は十分によく辿ってゆくことができた。

構想はこうである。キオッツァの女どもが家の前の船著場に腰をおろし、いつものように紡いだり、編物をしたり鋏の音をさせている。そこへ一人の若者が通りかかって、一人の女に他の女よりも格別親しげに挨拶する。そこでやがて当てこすりが始められる。それが度を増して、だんだん烈しくなり、嘲笑にかわり、さらに高まっては攻撃となり、ますます無礼がつのって、ついには性急な一人の隣の女が真実を発(あば)いてしまう。そうなると悪口、雑言、絶叫が一斉に爆発し、極端な侮辱的行為さえ行われたので、やむなく裁判所の人たちが干渉することになる。
……
自分自身や自分の家族のものたちがいかにもありのままに演じ出されるのを見て、見物はやんやと喝采するのだが、こんな面白い光景を私はまだ曾て経験したことがない。始めから終りまで哄笑と歓呼の連続である。しかしまた私はここに俳優の芸がすぐれていたことも認めなければならない。彼らは人物の性質に応じて、民衆の間に一般に行われているような種々の声をば、めいめい使い分けた。

スターの女優は最も愛らしく、最近女丈夫の服装で情熱的な役を演じた時よりも、遙かによくやった。概して女優は、中んずくこの女優は、民衆の声と挙動の本性をきわめて優美にまねていた。また、つまらない材料からこんな愉快な慰みをつくりあげた作者も大いに賞讃に価する。これもまったく直接に自国の楽天的な民族を相手にしてこそできることだ。作者の筆は実に達者なものである。 ……」
 ――『イタリア紀行』(上巻、相良守峯訳、岩波文庫、1942年6月1日発行)
  1. 2010/09/04(土) 00:02:55|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
  3. | コメント:0
<<ヴェネツィアの建物: フォースカリ館(Ca' Foscari) | ホーム | 文学に表れたヴェネツィア――ゲーテ(1)>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

カウンタ

カレンダー

10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -

プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

最近の記事+コメント

カテゴリー

ブログ内検索

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

過去ログ

フリーエリア