イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: フォースカリ館(Ca' Foscari)

ジュスティニアーン館隣の、フォースカリ館について『ヴェネツィアと入江』(1926)の記述は次のようです。
カ・フォースカリとジュスティニアーニ館カ・フォースカリ中央がフォースカリ館 「今は経済商業高等専門学校(Istituto Universitario di Economia e Commercio)の在所。モニュメンタルで、壮麗な建造物である。15世紀後半の、ヴェネツィア・ゴシック期の建物の中でも最も重要な例である。

フォースカリ家の邸宅であった。栄光に包まれたその激動の人生の中でも30年以上も共和国政府を支えた総督フランチェスコ・フォースカリ[全総督中、最も長期在位、1423~57年]は、最上級職から解任されたその政治的原因のため、苦悩の余り1457年11月1日ここで死んだ。

ヴェネツィアの伝統的建築様式による塔と思しき物が傍に建っていた。以前に存在した館は、共和国将軍マントヴァ侯へ提供のために政府が1428年獲得したが、1439年にはフランチェスコ・スフォルツァに譲られたと思われる。結局1452年競売に付され、総督フォースカリが取得し、彼は取り壊して現在の建物を再建した。
フランチェスコ・フォースカりラッザロ・バスティアーニ画『総督フランチェスコ・フォスカリ』、2011年『世界遺産 ヴェネツィア展――魅惑の芸術-千年の都』で来日
1700年代には内部を拡張して建て替え、中庭と外階段を取り潰した。1800年代にはヴェネツィア市が手に入れ、修復(1867)し、商業高等学校、現在の経済商業高等専門学校となった。――1574年ヴェネツィアを通り掛かったフランスのアンリ3世を迎えたのだが、今日では当時の華麗に設えられた内部の豪華な装飾的面影は殆ど残存していない。」

また『ヴェネツィアの建物』(1998)は次のような歴史を語っています。

「1420年共和国は15世紀末頃建てられたこの貴族の屋敷を、ジュスティニアーン家から6500ドゥカートで購入した。十人委員会はマントヴァ侯ジャン・フランチェスコ・ゴンザーガに与えることを決めた。しかし10年後、彼がミラーノと同盟した時没収した。その後館はスフォルツァ侯フランチェスコの手に渡った。

続いてセレニッシマは館を競売に付し、1423~57年総督だったフランチェスコ・フォースカリが取得した。彼は父親がその理由が未だに判然としない流罪で追放されていたエジプトで育ったが、27歳には元老院議員、31歳には Avogador(司法長官)、僅か45歳でサン・マルコ収入役(Pracurator 財務官)となった。
[Pracurator de S.Marco とはヴェネツィア共和国では貴族階級の中でドージェの次に位する、第一級の高官と『ヴェネツィア語辞典』にあり、『伊和辞典』(小学館)には収入役とあります。]

4年後には総督に選出され、ヴェネツィア史上最年少の総督となった。在職中対ヴィスコンティとの10年に及ぶ戦争のお陰でヴェネツィア領はロンバルディーアのアッダ河岸まで拡張された。

1440年彼の息子ヤーコポのルクレーツィア・コンタリーニとの結婚式が祝われた。総督自身は結婚式の夜、150人の貴婦人に付き添われた花嫁をブチントーロ船でサン・バルナバから総督宮殿まで案内し、そこで豪華な食事が饗された。サン・サムエーレとサン・バルナバ間に架けられた船の浮橋の上を花嫁を迎えに行く貴婦人や騎士の行列が通過した[当時はアッカデーミア橋は存在せず]。サン・マルコ広場では馬上試合が催され、フェッラーラ侯やモンフェッラート侯、フランチェスコ・スフォルツァの息子まで参加した。

何年間かはヤーコポは自分の事が話題にならないようにしていたが、1445年スキャンダルが発生した。十人委員会に総督の息子が不法な取引や人に便宜を謀り、高価な見返りを得ているという噂が届いた。逮捕命令が出され、続いてルーマニアのナウプリアへの追放刑が下された。[ナウプリア(Nauplia)はルーマニアではなく、ギリシア南部のナウプリオンのことのようです]。しかしトレヴィーゾへの強制移住に変更された。

父親の懇願で2年後呼び戻された。しかし1450年11月5日の夜、貴族のアルモロ・ドナが帰宅途中殺された。彼はヤーコポ・フォースカリの刑の申渡しの時の十人委員会のメンバーであり、その殺害の時間に総督宮殿近くで、彼の使用人が見られていたので、彼は逮捕され、クレタ島に流刑になった。

実際はヤーコポは無実であった。というのはニコロ・エーリッツォが死の床で殺人を告白したのだった。が既にヤーコポは亡くなっていた(この悲しい事件から、バイロン卿は『二人のフォースカリ』の悲劇の主題を取りだし、ヴェルディがこの作品からオペラを作った)。
[フランチェスコ・マリーア・ピアーヴェは、1842年フェニーチェ劇場の direttore degli spettacoli に就任すると、1844年に『二人のフォースカリ』の台本をヴェルディに提供(ローマのアルジェンティーナ劇場初演)。1848~59年フェニーチェ劇場の公式詩人となり、『リゴレット』や『椿姫』等ヴェルディのためには10作品の台本を執筆しました。]

フランチェスコ・フォースカリはその時84歳だった。彼は今や総督としての仕事を遂行するのが無理になっていた。十人委員会は彼を引退させた。数日後亡くなったが、伝説によるとその時には新総督パスクァーレ・マリピエーロの選出の鐘が鳴っていたのだとか。

しかし邸宅には悲しい思い出ばかりではない。大運河上での祝祭やレガッタの時には、煌びやかな人達が集まった。1579年のオーストリアのフェルディナント公とマクシミリアーン公、1686年のブラウンシュヴァイクのエルンスト公、1709年のデンマーク王フェルディナン4世等がある。

1574年フランス王でありポーランド王のアンリ・ド・ヴァロワ3世がヴェネツィア共和国滞在中の住居としてここを選んだ。フランチェスコ・フォースカリが死んだ部屋の直ぐ近くの部屋に在留したのだった。フランス王と王妃エレオノーラは、絹の正装で矛と槍を手にした護衛兵60人と若い貴族達40人を随えた総督に出迎えられ、ムラーノ島まで導かれた。

金箔を貼り、絵柄を刻印した皮革や高価な織物、古い武具等で飾られたフォースカリ宮殿にブチントーロ船で到着した。何艘かの大きな船の上に設けられたある種のロッジャ(柱廊)でオーケストラが飛切りの音楽を演奏した。邸館の前には船上に設えられたガラス窯に一晩中火が入れられ、火と、溶けて白熱光を発するガラス・ペーストが映え、大運河を照らし出した。

祝宴のテーブル上には食器やフォーク・セット、また菓子職人の砂糖で作った神話や歴史を題材にした像、その飾付けがサンソヴィーノのデザインで配置された。レガッタが行われたのだが、今日でも浮かべられる貴賓席はフォースカリ館の直前に係留される。
[この館直前の大運河の屈曲部は《Volta de Canal》と呼ばれ、現在ゴンドラ等のレガッタのゴール地点で、そこに設置される観覧席は《マーキナ(machina)》と呼称されます。先日、9月第一日曜日に行われた Regata storica でもここがゴールになった筈です。]

1847年市の取得するところとなり、入念な修復後、経済商業高等専門学校となった。現在はヴェネツィア大学の本部である。」
カナレット画をヴィゼンティーニが板刻Canaletto の絵を Antonio Visentini がエッチングした『ヴェネツィアのパースペクティヴ(Le Prospettive di Venezia)』の38画の1枚から――リアルト橋方面からの展望で、大運河最奥正面中央の建物が Ca' Foscari です。
  1. 2010/09/11(土) 00:01:01|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
  3. | コメント:2
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コメント

こんばんは! お邪魔します。 こちらに拝見にあがるには、しっかり腰を据えて
読まないと申し訳なく、で、気持ちの落ち着かない時はなかなかお邪魔できず
失礼しております。
ヴェネツィア大学の別名の様に言われるカ・フォスカリにも、総督とその息子の
スキャンダルが絡むのですね。 先日ドゥカーレ宮を見に行った時、秘密の投書口
の前でガイドさんが、投書は必ず署名がされていないと取り上げられず、そして
証人と共に呼び出されて再度口頭で申し立てをし、それから審査された、との事で、
単なる告げ口とは違う、感じを確認した事でした。 
レガータ・ストーリカはそう、まさに貴賓席がその斜め前に繋がれ、その前のカーヴが
ゴール地点です。最後の競艇の勝者は、既に11年でしたか、例の従兄組みでした。
 
  1. 2010/09/13(月) 22:15:36 |
  2. URL |
  3. shinkai #-
  4. [ 編集 ]

Shinkai さん、コメント有り難うございます。
この度は、沢山の事を教えて頂きました。先ずはマッゾルボやサンテラーズモ
の野菜の島やチェルトーザの島々の事、次回は必ず見に行かねばなりません。
まだまだヴェネツィアは見聞する所が、夥しくあるということです。
それに総督宮殿も何度も案内で入館しているのですが、ピオンビの牢獄等を巡る
コースは見ていません。投書口への投書は署名が必要だったという話は大変興味
深いことです。それあってこそ十人委員会の正確さと権威は保たれるのでしょう。
総督フォースカリの息子に対して間違いを犯したようなことが頻繁であれば、
それは恐怖政治です。紙一重のところだったのでしょうね。
  1. 2010/09/14(火) 04:32:07 |
  2. URL |
  3. ペッシェクルード #/plE8HKU
  4. [ 編集 ]

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Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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