イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの劇場: Teatro di San Moise`(サン・モイゼ劇場)

サン・モイゼ教会を背にして直前のサン・モイゼ橋(P.S.Moise`)を跨越し、3月22日大通り(Calle Larga XXII Marzo)を進み、右のフェニーチェ劇場へ向かうサルトール・ダ・ヴェステ通り(Cl.del Sartor da Veste)と丁度反対側の、左へ入るテアートロ・サン・モイゼ通りの奥に同名の小広場(Ct.Teatro S.Moise`)があります。ここにサン・モイゼ劇場があったのだそうです。

この劇場について『Venezia――I luoghi della Musica』(1995刊)は、次のような事を述べています。
ヴェネツィアの音楽「建設は1620年のことで、1906年過ぎまで(長い中断の時期を含み)活動を続けた。どちらかと言えば、3層の palco(桟敷席)を持つ長細い形の劇場であった。ガースパロ・ゴッズィ[ヴェネツィアの新聞“Gazzetta Veneta”(1760-61)等の創刊者]は書いている、≪観衆が喜劇に真の喜劇性を与える。何故かならば、座席と演者との間で間断なく掛け合いが続くからである。≫と。

貴族のジュスティニアーン家の建造であり、1638年音楽劇をやるに相応しい劇場として改装された。1639年、オッターヴィオ・リヌッチーニ台本、クラウディオ・モンテヴェルディ作曲の『アリアンナ』で開場した(この作品は1608年既にマントヴァで上演されていたもので、イタリア・バロック史上最も美しい作品の一つと言われる『アリアンナの嘆き』の≪Lasciatemi morire(死なせて下さい)≫が唯一現在に伝わっている)。

1679年 marionette(操り人形劇)のための作品『Ulisse in Feacia(スケリア島のオデュッセウス)』[伊語フェアーチャとはギリシア神話のスケリア島(現ケルキラ島、旧名コルフ島のこと)で、feaci(パイアーケス人)の国。嵐に遭い、海中に投げ出されたオデュッセウスは、アルキノオス王の娘ナウシカアーに発見され、救助されて、結局故郷イタケーに送り届けられる。]が上演された。それは≪舞台内部で音楽家達が歌い、リアリスティックに人形達が演じた。≫という。

1680年にも操り人形劇、フィリッポ・アッチャイウオーロとアウレーリオ・アウレーリ台本、マルコ・アントーニオ[マルカントーニオ]・ズィアーニ作曲の『Damira placata(癒されたダミーラ)』[エジプトの王クレオンテの王妃ダミーラは、フィダルバと名を変え、羊飼いの娘の住処に潜んでいる。]が上演された。オーケストラと歌手達は、≪木製あるいは蝋製の人形≫が操られる舞台の背後に隠れていた。

1684年劇場は4層の桟敷席に改築され、オペラ公演で再開場した。

アントーニオ・ヴィヴァルディのオペラで最初に上演されたのは、『La costanza trionfante degli amori e degli odii(愛と憎しみに勝つ貞節)』(1716、A.マルキ台本、現存)、そして『Armida al Campo d'Egitto(エジプト戦場のアルミーダ)』(1718)[G.パラッツィ台本、1、3幕現存――トルクァート・タッソの『解放されたエルサレム』中の魔女アルミーダと十字軍将軍リナルドの物語。彼女は十字軍を混乱させ、彼を眠らせ殺そうとした時、あまりの美男子の彼に恋してしまう。]が舞台に掛けられた。
[T.タッソのこの話をオペラ化した、ヘンデルがロンドンに行き最初に書いた『リナルド(Rinaldo)』の第2幕4場でアルミレーナ(Almirena)の歌うアーリア《Lascia ch'io pianga/Mia cruda sorte, …》は、大変有名になりました。チェチーリア・バルトリ(Cecilia Bartoli)の歌Lascia la spinaでどうぞ。しかしこれはヴィチェンツァのテアートロ・オリンピコで行われた、《Lascia la spina》という別ヴァージョンによるコンサートです。]

トマーゾ・アルビノーニのオペラ『L'Ermengarda(エルメンガルダ)』[アントーニオ・マリーア・ルッキーニ台本――ランゴバルド族の王デジデーリオの娘エルメンガルダはフランクの王シャルマーニュに嫁ぐ。]は、1723年に上演された。

1765年にはジョヴァンニ・パイジエッロ作曲の『L'amore in ballo(ダンス中の恋)』、1775年にはパスクァーレ・アンフォッシ作曲の『La Didone abbandonata(捨てられたディードー)』[ディドーネは希語ディードー。ヘンリー・パーセルの『ディードーとアイネイアース(ダイドーとイーニアス)』のダイドー(Dido)に同じ。テュロス族の女王ディードーはカルタゴを建設したという。]が上演された。1750年からカルロ・ゴルドーニの喜劇をバルダッサーレ・ガルッピが作曲して上演されるようになった。

1764年には、有名な歌手ローザ・ヴィタルバを顕彰して、あるファン達が彼女への頌詩を鳩に括り付け、放ったということがあった。

1810年11月3日、ジョアキーノ・ロッスィーニ[伊語では Gioacchino(ジョアッキーノ) ですが、本人は1ヶの"c"で Gioachinoと綴ることを好んだそうです]の最初の本格的なオペラ『La cambiale di matrimonio(婚約手形)』を、そして『L'inganno felice(幸福な錯覚)』(1812)、『La scala di seta(絹のはしご)』(1812)、『L'occasione fa il ladro(出来心の盗み/成り行き泥棒)』(1812)、『Il signor Bruschino(ブルスキーノ氏)』(1813)とこれら全ての初演を断固として行った。

1818年、ロッスィーニの『Cenerentola(シンデレラ)』の再演後、劇場は閉鎖され、売られて、大工の仕事場に改築された。操り人形劇のために再開場したのは1871年で、1906年には映画館となり、後、崩れ落ちた。」
  ――A.Bova『音楽する土地ヴェネツィア』(1995)より
  1. 2010/11/13(土) 00:01:53|
  2. ヴェネツィアの劇場
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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