イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィア年中行事(11)

11月1日は諸聖人の祝日(i Santi)、翌2日は故人の日(i Morti)なので、ヴェネツィア人は11月サン・ミケーレ島に墓参します。リード島の墓はサン・ニコロ教会傍にあります。
サン・ミケーレ島墓地以前はサン・ミケーレ島のヴァポレットの停留所はサン・ミケーレ教会入口前にあり、11月はアックァ・アルタ(高潮)のシーズン故、停留所と教会入口の間には、濡れないで渡れるように板の橋が架かっていましたが、現在は停留所がヌオーヴェ海岸通り(Fdm.Nove)側に移動したので、アックァ・アルタの心配は多少解消されたようです。

11日はサン・マルティーノ(聖マルティヌス)の祝日という賑やかな行事がかつてあり、立ち消え状態になっていたものを再生させたいとヴェネツィアが画策中だと、ファビさんがメールを呉れたことがあります。数年前から実際に子供達が鍋を持ち、底を棒で叩き、唱え事しながら町中を歩き回っているそうです。

お菓子屋さんでは乗馬した聖マルティヌス姿の菓子を作り、祭の雰囲気を盛り上げます。彼らに出会った人はいささかのドルチェを渡さないと、その騒音から逃れられません。私は偶然バーカロ、アンティーカ・オステリーア・ルーガ・リアルトで夕食中、突如店頭のカウンター近くで鍋の騒音がし、何事かと思ったことがありました。子供達が目当ての物を獲得するや騒音は直ぐさま収まりました。

以前にも引用しました『名前辞典(Dizionario del nomi propri)』(Manuali Sonzogno刊)は、Martino について次のように記述しています。
「 聖マルティヌスの名前はパンノーニア(古代ローマの属州。現ハンガリーのドナウ州の南西部)で帝国の騎馬警備隊の一員として軍務に着いていた兵士の伝説と繋がっている。

ある日彼は、僅かばかりのぼろを纏って、寒さに歯をガタガタいわせている貧しい形(なり)の者に出会った。彼を見るや情け深い騎士は剣を抜き、マントを真っ二つにして、貧しい乞食に半分を分け与えた。半分のマントでも寒さが凌げるように、気温が暖かくなったと伝説は語っている。その時以来毎年、聖マルティヌスのお蔭で(11月11日)、天候が穏和になり、夏が戻って来たかのような日を、短い《サン・マルティーノの夏[日本では、小春日和]》と称する。

フランスのトゥールの司教座聖堂はガリア人の改宗と異教徒に対する闘いに捧げられているが、彼の慈悲深さにあやかってマルティーノ(仏語式マルタン)の名前が付けられたが、397年の彼の死で、フランスの守護聖人サン・マルタンとなった。

Martino の名前はラテン語の、Martinus から来ており、その愛称は《マルス[Marte軍神、ギリシア神話アレース] に捧げた》の意である。

この名の人は、聖名祝日として11月11日に祝う。一方女性(Martina)は、ローマ皇帝セウェルス・アレクサンデル(Alessandro Severo)時代のAD.230年頃、異端として殺されたローマの若い貴族の娘だった聖女マルティーナに捧げた1月30日の聖名祝日に祝う。」――『名前辞典』より

[外国人名等=Martin(英:マーティン)、Martin(仏:マルタン)、Martine(仏:マルティーヌ)、Martin(独:マルティーン)、Marti`n(西:マルティン)、Martin(蘭:マルティン)、Martin(丁:マーティン)、Martin(諾:マッティン)、Martyn(露:マルティン)。伊語変化形=Martiniano、Martinella、Tino、Tina。]

ヴェネツィアのサン・マルティーノ教会は、アルセナーレ正門の右前方にあります。

11月21日はヴェネツィアのサンタ・マリーア・デッラ・サルーテの祝日(Festa di S.Maria della Salute―サルーテ祭)です。イタリアの Wikipedia は次のように述べています。

「教会は税関岬(Punta della Dogana)地区に建てられ、ここからのサン・マルコ湾(Bacino di S.Marco)や大運河(Canal Grande)の景観は素晴らしい。パッラーディオをモデルとして、バルダッサッレ・ロンゲーナ(Baldassarre Longhena)によって建てられ、ヴェネツィア・バロック建築の最良の一つである。

レデントーレ教会やサン・ロッコ教会に倣って、人口の大半を奪った1630-31年のペスト猖獗から逃れるための、ヴェネツィア人の聖母(Madonna)に対する祈願を意味している。ペストはマントヴァ公の外交官がヴェネツィアに持ち込んだ。彼はラッザレット・ヴェッキオ[Lazzaretto Vecchio 島、当時この島はペスト蔓延時には患者を収容し、治療に当たる病院があった。リード島傍にある]に収容されたが、サン・リーオ広場から蔓延していった。

1630年10月22日、貴族のジョヴァンニ・ティエーポロが誓願した。《“S.Maria della Salute(健康)”と命名する、聖母マリア(Vergine Santissima)に捧げる教会をこの町に建てるという誓願である。そしてこの疫病から解放された暁には、毎年その日総督とその随員は元老院と共にこの恩寵への感謝を永遠に記念して、厳かに訪れるものである》と。

サン・マルコ広場に10月26日、総督ニコロ・コンタリーニと聖職者、市民は祈願のために集まった。ペスト終焉時には、8万のヴェネツィア人が亡くなっていた。総督や貴族を含めて、ブレッシャからトリエステ、ポレージネからベッルーノまでの共和国領では60万人が亡くなっていたのである。

新教会のための建設地には、海の税関岬(Punta da mar)、ヴェネツィアの税関に隣り合う場所[至聖トリニタ教会とその修道院、同信会館があった]の宗教施設を取り壊すことが決められた。ここに教会建設のためには広大な土地の干拓と115万6650本の杭を打ち込む必要があった。1631年11月28日には感謝の巡礼行が始まった。

[日本の天正の4少年使節が1585年ヴェネツィアにやって来た当時、この至聖トリニタ教会の修道院が宿舎になったのではないかと、色々資料を読みながら考えています。]

コンクールで決まったバルダッサッレ・ロンゲーナに建築は委ねられ、《聖処女マリアに捧げられて、王冠の形の》教会が建設され、献堂は貴族アルヴィーゼ・サグレードが1687年11月9日に建物を祝福した時である。

毎年11月21日、マドンナ・デッラ・サルーテの祝日として祝われる。ヴェネツィア人は何世紀も船の浮橋(現在は杭で固定されるようになった)を渡り、サン・マルコからサルーテへ参詣に赴く。レデントーレ祭と同様、ヴェネツィア人に一番愛されている祭である。
サルーテ教会へのお詣りの浮橋。Alvise Zorzi『Venezia ritrovata』から借用[サルーテ教会へお詣りの橋。Alvise Zorzi著『Venezia ritrovata 1895-1939』(Arnoldo Mondadori Editore刊)から借用]
この日伝統的にヴェネツィア人は、castradina という去勢雄羊の煮込み料理を食べる。」
――Italia Wikipediaより

2014.08.25日追記: カストラディーナについては次のブログカストラディーナをご参照下さい。
  1. 2011/03/26(土) 00:00:52|
  2. ヴェネツィアの行事
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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