イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――ヘルマン・ケステン(1)

ジャーコモ・カザノーヴァについては、既に二度2009.06.27日の文学に表れたヴェネツィア――シュニッツラーと2009.07.04、2009.07.16日の文学に表れたヴェネツィア――カザノーヴァで書きました。神保町を歩いていましたら『カザノーヴァ』上中下巻(ヘルマン・ケステン著、小松太郎訳、角川書店、昭和38年11月20日)の文庫本が、古本屋さんの店頭の屋台に並べてありました。ヘルマン・ケステン(1900.01.28ポーランド・ガリツィアのポドヴォウォチュイスカ~1996.03.03バーゼル)といえば、『ゲルニカの子供たち』(白水社)や『性にめざめる頃(ヨーゼフは自由を求めてゐる)』(角川文庫)が思い出されます。
ヘルマン・ケステンの『カザノーヴァ』1960年、独ブロックハウスの金庫が開かれ、彼の自筆原稿がブロックハウス書店とパリのプロン書店から原文通り刊行され始めるのですが、それ以前独訳はヴィルヘルム・シュッツ、仏語版はジャン・ラフォルグの校閲で、原文は相当改竄され、その本をケステンは読み、この『カザノーヴァ』を執筆したそうです。

ケステン自身はカザノーヴァの性愛描写の箇所は、《一番文章がまずいのが不思議だ……われわれは彼の道徳家ぶった、校訂者の訂正文を読んでいるにすぎない》と首を傾げているそうです。

「ジャーコモ・カザノーヴァは1725年4月2日にヴェニスで生まれた。それは一人の幸運児にとって、恋愛三昧の耽溺生活をするのにはうってつけの時であり、場所だった。
……
彼は私生児で、歓迎されない子供だった。彼には父親が二つあった。一人は貧乏で合法的の父親、一人は非合法な金持ちの父親だった。二人とも彼を棄ててかえりみなかった。彼には、ロンドンを皮切りにドレースデンまで舞台とベッドで出世をしたうら若い、美貌の母親があった。ところが母親は、子供が満一歳になると、この子供を棄てた。それ以来彼は一生母親と一緒に暮らさなかった。
……
ジョヴァンナ(彼の母)はファルージという靴屋の娘で、家庭ではツァネッタ[ヴェネツィアではザネッタ]、劇場ではラ・プラネルラ[ラ・ブラネッラはブラーノ島生まれの意]と呼ばれていた。彼女はまだ15歳だったが、家の向こう側に住む俳優のガエターノ・カザノーヴァとあわてて駆落ちをし、両親の意にそむいてヴェニスの総大司教の前で(1724年2月27日)結婚した。彼女は座頭で貴族のミケル・グリマーニといっしょに彼をだまして、一児をもうけた。結婚後13か月目のことだった。
……
1年後ツァネッタはジャーコモ・ジェロニーモ[ジェローニモ=それが彼の洗礼名だった]を母親のマルチアにあずけて、夫とロンドンに渡った。ロンドンに着いたツァネッタは一足とびに舞台に飛び上がって、後にイギリスの皇帝ジョージ2世となったプリンス・オブ・ウェールスのベッドにころんだ。

彼女が19歳の時ロンドンで産んだ二人目の息子フランチェスコのことを、世間ではプリンス・オブ・ウェールスのご落胤だと陰口をきいた。フランチェスコは後に有名な戦争画家(パリの翰林員会員)になり、百万以上儲けて浪費してしまった。
……
彼(父)は若い妻をロンドンからヴェニスにつれて帰った。ツァネッタはサン・サムエーレ座に出演した。この劇場には夫が俳優として出演していた。また彼女の友達のグリマーニ(ジャーコモの実父で、ミケル・グリマーニ)は、その小屋の座頭だった。彼女は三男と四男の父代わりになってくれる貴族(グリマーニの三人兄弟ミケル、ズアーネ、アルヴィーゼ)を見つけた。

(三男のジャンバティスタはドレースデンで絵画学校の校長になった。四男のツァネットはのらくら者で、ローマで説教師としておわった。一人の娘は四歳の時痘瘡で亡くなった。もう一人娘はドレースデンでバレーを踊り、宮廷のチェンバロ教師ペーター・アウグストと結婚した)。
……
60年後カザノーヴァは《わたしが生涯で味わった、初めてのほんとうのよろこびは、おばかさんの言ったことが母と後見人にたいしてどこまで正しかった》ということだと書いている。バッフォーがいなかったらカザノーヴァは、世間の掟や習慣に唯々諾々としたがう意気地なしになっていたかもしれない。

バッフォーのおかげで彼は自分自身の理性に喜びを見いだしたのだ。孤独な時には、それが彼の気を引きたてたのだった。評判のわるい、この女たらしのカザノーヴァはインテリだった。恋人の腕に抱かれている時でも、やはりインテリだった。

話すことは処女のようで、考えることはサチュロスのようだと言われたジョルジオ・バッフォーは、ある名門の血を引き継ぐ最後の男だった。ぶおとこで、実生活では極度のはにかみ屋だったが、わいせつな詩を書く時は途方もなく大胆になった。
Giorgio Baffo『Sonetti licenziosi』バッフォーは、カザノーヴァが謦咳に接した初めての詩人だった。彼はカザノーヴァの最初のパトロンであり、この少年に才能のかすかな閃きをみとめた最初の人だった。おそらくカザノーヴァは彼をもとにして、詩人と色男はこういうものだと考えたのかも知れない。つまり、このわいせつな自伝のお手本になったのだ。
……」
  ――『カザノーヴァ』上巻(ヘルマン・ケステン著、小松太郎訳、角川書店、昭和38年11月20日)より

ジョルジョ・バッフォが住んでいた家は、サン・マウリーツィオ教会(chiesa di S.Maurizio)入口の右直前の2760番地の建物、ベッラヴィーテ=テルツィ(Bellavite-Terzi)あるいはベッラヴィーテ=ソランツォ=バッフォ(Bellavite-Soranzo-Baffo)と呼称される、16世紀半ばの古典様式の建物です。
ジョルジョ・バッフォの家サン・マウリーツィオ広場で、教会入口からこの建物を見ると、壁面に二つのプレートが嵌め込まれているのが分かります。左には「1803~1804年、アレッサンドロ・マンゾーニがこの家にすんだ」とあり、右には「QUI VISSE GIORGIO BAFFO / 1694-1781 / POETA DELL'AMORE CHE HA / CANTATO CON LA MASSIMA LIBERTA` / E CON GRANDIOSITA` DI LINGUAGGIO / GUILLAUME APOLLINAIRE 1910.(1694~1781年、ここで限りなく放恣に、そして絢爛たる措辞口跡で愛を歌った詩人ジョルジョ・バッフォが生きた。ギヨーム・アポリネール、1910年)」とあります。
  1. 2011/04/16(土) 00:02:18|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
  3. | コメント:0
<<文学に表れたヴェネツィア――ヘルマン・ケステン(2) | ホーム | ヴェネツィア年中行事(13)>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

カウンタ

カレンダー

04 | 2017/05 | 06
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -

プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

最近の記事+コメント

カテゴリー

ブログ内検索

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

過去ログ

フリーエリア