イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――ヘルマン・ケステン(2)

「ツァネッタは心ならずもジャーコモの初恋と文学的野心をあおる結果になった。彼女はヴェローナにある古代ローマの円形劇場で、《ラ・プピルラ》[注=かわいらしい口、pupilla だとすれば《瞳》のこと]という、音楽入りの喜劇に出演していた。これは彼女の同郷人のカルロ・ゴルドーニが、彼女の新しい座頭イメール(Giuseppe Imer。ツァネッタの新しい恋人)と、彼女の侍女の喜劇的な関係からヒントを得て、二人にぴったり合うように書いたものだった。

ゴルドーニは歳をとってからも、パリで書いたフランス語の自伝の中で《ツァネッタ・カザノーヴァはかわいらしい、非常に老練な未亡人だった》と書いている。彼女は楽譜も読めないのにとてもチャーミングに唄って、お客をよろこばした。ヴェニスで出版されたゴルドーニのある作品集に彼女の銅版刷りの肖像が載っている。はっきりした目鼻だち、姿勢もからだつきもりっぱな、背の高い女だ。
……
六ヵ月後に彼女は、(おそらくザクセンの選帝侯で、イタリア喜劇と喜劇女優たちの非常なファンであるポーランド王のアウグスト三世の腕に身を投ずるためだったのだろう)、ドレースデンの宮廷劇場にむかって出発する前に、もう一度息子と教師をヴェニスに呼んだ。ツァネッタはドレースデンのこの劇場で生涯を終ることになった。
カザノーヴァの肖像(青年時代)……15歳になってカザノーヴァは、生まれて初めてのように、故郷のヴェニスのまちを見た。千年を経た貴族的共和国は、薄れゆく偉大さのかがやかしい残照の中に生きていた。共和国統領はまだ縁のない帽子をかぶって、はればれしく海と婚礼の式をあげていた。しかし多くの海はすでに新たな主人(フランス、オランダ、イギリスをさす)になびいて、商業は衰微していた。

角ごとに教会が建っていたが、会衆は賭博をした足で来て、濡れごとにでかけた。百五十の運河に架けられた四百以上の橋が、橋と運河に通じていた。大陸から四キロ隔たった入江のまん中の、百に近い小島の上にあるまちはヨーロッパの浮き舞台だった。

仮装のいかさま賭博師たちが本物の国王たちと出遇った。画家たちと船乗りたちが閣下と呼び合った。あらゆる道路、あらゆる劇場で即興的な喜劇が演じられた。劇場の仕切り桟敷の中でさえ、サロンやカジノやカフェーとおなじように賭けごとが行なわれた。世の中全体が恋に陥っているようだった。

その盲窓(めくらまど)、無数の欄干とゴンドラ、行き止まりになっている横丁、不意にひらく側壁、音もなくしまる秘密のドア、その数限りのないバルコニーとおびただしい迷路を持ったヴェニスは、冒険家と、恋愛にうつつを抜かす人びとの楽園だった。一年の半分は謝肉祭で暮れた。統領の名が、《仮面の旦那》で呼ばれた。ゴンドラの船頭の名が《仮面の旦那》で呼ばれた。

十字架からリアルトへ、聖徒から姦淫へ、西洋から東洋へ、仮面舞踏会から鉛板屋根(ヴェニス政庁内の獄舎)まではほんの一歩にすぎなかった。ジガンテの階(きざはし)[巨人の階段]は恋愛遊戯につづいていた。芸術の浪費はこの世の享楽とおなじく莫大なものだった。
……
劇場の仕切り桟敷の中では大修道院長たちが舌なめずりしながら貴族の細君や賤民の娘たちを味わっている。パンタローネはおどけ、アルレッキーノはくつくつ笑った。カルロ・ゴッチは自作の童話を、またカルロ・ゴルドーニはその二百の喜劇を上演させた。

ゴンドラの船頭たちはタッソーとアリオストの詩を唄った。肉欲は裸で、あるいは仮面をかぶって歩いた。ジャンバティスタ・ティエポロはそれを画にかいた。バルダッサーレ・ガルッピは七十のオペラ・コミックの中でそれをあざ笑った。肉欲は教会のひらかれた入口を洩れる聖歌隊のうっとりするようなメロディーから聞こえ、水にこだまするゴンドラの船唄からも昼夜の別なく聞こえて来た。ヘンデルもグルックもヴェニスでオペラを書いた。謝肉祭にはモーツァルトがやって来た。

ヴェニスの歌手たちのこの世ならぬ声にはゲーテもルソーも心酔した。ルソーのジュリエッタはひょっとすると、カザノーヴァが肌着とズボンとキッスをとりかわした相手(プレアーティ・ジュリエッタ)と同一人物かもしれなかった。ド・ブロス氏はヴェニスの修道女たちの現世の愛にうつつを抜かした。カナレットとグアルディとロンギはヴェニスの宮殿と、風俗と、そのうっとりするようなたそがれの色と、ネプテューンの都の《最も幸福な夜》を描いた。……」
  ――『カザノーヴァ』上巻(ヘルマン・ケステン著、小松太郎訳、角川書店、昭和38年11月20日)より
『わが脱走記』挿絵 中巻ではピオンビ監獄からの脱獄について触れられますが、2010.05.22日に書いたロレンツォ・ダ・ポンテのダ・ポンテからカザノーヴァへの書簡の注(3)に、彼の入獄は、彼がフリーメイスンに入会しているとしてメンモの母親が当局に訴えたとあります。アンドレーア・メンモとジュスティニアーナ・ウィンの恋の書簡を基に書かれた『ヴェネツィアの恋文――十八世紀、許されざる恋人たちの物語』(アンドレア・ディ・ロビラント著、桃井緑美子訳、早川書房、2004年6月30日)の脚注に次の文章があります。

「1755年7月25日のカサノヴァの逮捕は、いくつかの要因が重なって決定されたようだ。無神論者だと公言していること、数秘術に手を染めていたこと、三人の老貴族を騙したとうわさされたことである。ルチア・メンモの訴えもひと役買ったが、カサノヴァはそれをわかっていた。《彼[アンドレーア]の母親はわたしを牢獄送りにした一味に加担していた》とのちに回想録に書いている。だが息子たちを恨むことはなかった。」

次回はそのディ・ロビラント著『ヴェネツィアの恋文』について。
  1. 2011/04/23(土) 00:05:45|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
  3. | コメント:0
<<文学に表れたヴェネツィア――アンドレア・ディ・ロビラント | ホーム | 文学に表れたヴェネツィア――ヘルマン・ケステン(1)>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

カウンタ

カレンダー

04 | 2017/05 | 06
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -

プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

最近の記事+コメント

カテゴリー

ブログ内検索

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

過去ログ

フリーエリア