イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――アンドレア・ディ・ロビラント

アンドレア・ディ・ロビラント著『ヴェネツィアの恋文――十八世紀、許されざる恋人たちの物語』(桃井緑美子訳、早川書房、2004年6月30日)は、18世紀のヴェネツィア貴族メンモ家のアンドレーアとジュスティニアーナ・ウィンという実在した2人の、残された恋文を元に書かれた小説のようなドキュメントです。
アンドレア・ディ・ロビラント著『ヴェネツィアの恋文』「メンモ家は八世紀にヴェネツィアの基礎をきずいた一族の一つだった。歴史家はアンドレアの家系を古代ローマの氏族(ゲンス)、メンミア一族にまでたどっている。メンモ家は九七九年には元首(ドージェ)を出し、以来八世紀にわたって多くの政治家と高級官吏を輩出しつづけた。アンドレアの時代にも、ヴェネツィアの政治の世界でいまだ多大な影響力を保っていた。この街に住むほかの多くの貴族の家系が政治とは縁遠くなった時代に、メンモ家はエリート中のエリートだったのである。……
……
《昨日はなんとかしてきみに会おうとしました。昼食の前はゴンドリエーレの都合がつかず、昼食後にサント・ステファノ広場へきみを探しにいったのです。だがきみはいない。そこでサン・マルコ広場へ向かったところ、サン・モイゼ橋でルクレツィア・ピザーニにばったり会った! ……》
……
ヴェネツィア人が田舎に引かれるのは、自然に親しみたいという田園地帯への憧れからではない。お決まりの夏の大移動は奇矯な見栄の張りあいで、その様子はゴルドーニがその年の初めにサン・ルカ劇場で喝采を浴びた喜劇[『避暑三部作』(1756)のこと]でひやかしているが、つまりは冬に町で貪る怠惰な生活がそのまま田舎に場を移したものだった。……
……
スミス領事[ヴェネツィアのイギリス領事]は二十代の初めから避暑(ヴィレッジャトゥーラ)の習慣に親しんでいたが、ヴェネツィア北部のトレヴィーゾへの道路沿いにあるモリアーノという村に家を買ったのは、三十代に入ってからだった。友人のアントニオ・ヴィゼンティーニに改修を頼んだその家は、すっきりした直線と簡素で優雅な空間を特徴とする典型的なネオ・パラッディオ様式だった。
……
スミス領事は美術品のコレクションの一部をモリアーノの屋敷に移して壁を飾った。ベッリーニ、フェルメール、ファン・ダイク、レンブラント、ルーベンスといった過去の巨匠のほか、同時代の名匠としてマルコ・リッチ、セバスティアーノ・リッチ、フランチェスコ・ズッカレッリ、ジョヴァン・バッティスタ・ピアツェッタ、ロザルバ・カッリエーラの作品もあった。
……
避暑の一日は朝のホットチョコレートからはじまった。たっぷり眠ったあとの口のなかに甘味が広がり、たちまち活力が湧く。それはひそやかな場所、すなわち寝室で朝食とともにたのしめる。ヴィッラの主人夫妻と客は挨拶を交わして耳よりなうわさ話を一つ二つ交換し、それから朝の郵便物が配達される。その日の予定が決められる。
……
一七五八年のカーニヴァルは、アンドレアとの波乱つづき気の休まらない関係からジュスティニアーナをひととき解放した。十八世紀半ばには、カーニヴァルは《昔ほどの浮かれた底抜け騒ぎではなくなり、節度ある行事になっていた》。それでもヴェネツィアの街の通りや橋は、道化師や火食い術を披露する奇術師やさまざまな怪物でいっぱいだった。音楽と踊りと酒宴は夜までつづいた。ものすごい人出で移動するのもひと苦労だったが、仮面の群衆のなかを人に知られずに動くのは容易だった。
……
冬は終わりを知らないかのように長引いたが、春の兆しが訪れるとヴェネツィアは少しずつきらびやかな色彩をとりもどした。小路は行き交う人でふたたびにぎわった。運河には大小の舟があふれた。長いあいだじっと閉じこもっていたあとで、人々はまたおしゃべりしながらリストーネを散歩[ヴェ語で lista or liston と呼ばれ、夕方サン・マルコ広場を友人達とゆっくり行ったり来たりすること]しはじめた。

ドイツ人作曲家のヨハン・アドルフ・ハッセと彼の妻でソプラノ大歌手のファウスティーナは、アンドレア伯父が健在のころからアンドレアをかわいがり、メンモ邸をよく訪れていた。夫妻の娘のベッピーナとカッティーナも、いまでは成長してアンドレアとジュスティニアーナの友人になっていた。」
  ――アンドレア・ディ・ロビラント著『ヴェネツィアの恋文――十八世紀、許されざる恋人たちの物語』より
  1. 2011/04/30(土) 00:02:24|
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  3. | コメント:2
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コメント

こんばんは! 下のカザノーヴァについては、知っている様な気がしているだけで
本当はなにも良く知らない、といういつもの自分に反省もしながら、2度読み返し
ましたが、バッフォという詩人の事をまたの機会に取り上げて頂けると嬉しいです。
ロレンツォ・ダ・ポンテとカザノーヴァの交際があった事を知った時は、いささか
不思議な気がしたのですが、今こうして拝見していると、案外とてもよく似た2人の
人物、女たらしで知的という、そんなお互いを相手のうちに認めたのかも、という
気がして来ました。

この新しくご紹介の本、とても面白そうですね。なぜ許されなかったのか、家柄の
違いからなのでしょうが、実在の人物というのが興味あります。
次回を楽しみにお待ちします。
  1. 2011/05/05(木) 23:05:04 |
  2. URL |
  3. shinkai #-
  4. [ 編集 ]

shinkai さん、コメント有り難うございます。
いつか頂戴した、ダ・ポンテからカザノーヴァへの書簡集のコピーの中のその
詳しい注記で、二人の関係が多少は分かりましたが、それと共にメンモ家と付き合い
のあった、カザノーヴァとメンモとの関係も少し分かりました。カザノーヴァが
ピオンビの獄に収監されたのは、メンモの母に彼がフリーメイソン・グループに
入っていると訴えられたことも一つにはあったようです。メンモ家のような家柄の
貴族は軽々しく結婚出来なかったようです。
エロチック詩人バッフォは、書きましたようにサン・マウリーツィオ広場に面した
建物に住んだようですが、アルセナーレ西のド・ポッツィ広場のある島,その又西の島
のサン・テルニータ(伊語のS.Trinita`)広場の南に Baffo という通りがあり、あるいは
Baffo 家は元々この辺りに住んでいたのかもしれません。
  1. 2011/05/07(土) 07:53:05 |
  2. URL |
  3. pescecrudo #/plE8HKU
  4. [ 編集 ]

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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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