イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの印刷・出版(3)

グーテンベルクの金属活字の発明から20年程でそれを使用する印刷術がヴェネツィアに到来しました。アメリカの歴史学者 Frederic C.Lane は伊訳(Franco Salvatorelli 訳)版『ヴェネツィア史(Storia di Venezia)』(Einaudi Tascabile刊)で、1500年前後の印刷事情について次のように述べています。
Frederic C. Lane『Storia di Venezia』「……新産業の中で特に注意を引くのは、規格化された可動活字の発明者ヨーハン・グーテンベルクが1450年頃ラインラント(Renania)で始めた印刷業である。20年以上後に活字を鋳込むために溶解する母型作りをする鋳型や貨幣鋳造作りに秀でた2人の技術者のニコラ・ジャンサン[Nicola Jensen―仏人 Nicolas Jenson のこと?――プリニウス『博物誌』(1472)が有名?]とジョヴァンニ・ダ・スピーラ[Giovanni da Spira―独人Johann von Speyer(ヨーハン・フォン・シュパイアー)――ヨーハンとウェンデリン兄弟?]によってそれはヴェネツィアにもたらされた。

ジョヴァンニ・ダ・スピーラは最初の出版物の中で、キケロの書簡集を100部作るのに4ヶ月かかったと述べている。しかしこんなにも遅いスピードでも、手写本に比べれば圧倒的に早く、書店は前もって顧客に知らせることが出来た。そして2番目の本の時には、彼は同じ時間で600冊を作った。

ヴェネツィアには読者がおり、商業的繋がりで遠くポルトガルやポーランドまでにも本を送り、お客を容易く見つけることが出来るということで、本の印刷には適した土地柄だった。紙はヴェネツィアでは作られなかったが、ファブリアーノのようなイタリアの町で優れた紙が製造され、ヴェネツィアの手で売られていた。この新産業にいち早く腕のある職人が充分に集められた。

特許証や印刷の独占的権利を遵守させることは、この世紀他の土地同様に、ヴェネツィアでも困難であったが、政府はそうした権利を印刷業者に許すのに吝かではなかった。そうしたヴェネツィアの寛容さがヴェネツィアをして印刷業の大ヨーロッパ・センターと化さしめた。

1495~97年に、全ヨーロッパの印刷所が刊行したトータル1821点の刊行物の内、441点がヴェネツィアであり、当時2番手の印刷地パリは181点のみだった。1500年代初頭の戦争が、他の重要なイタリアの印刷地を破壊したが、ヴェネツィアの刊行点数は増加し続けたのである。

1500年代後半ローマでの印刷は、ヴェネツィアの3倍の費用が掛かると考えられた。ヴェネツィアの113社の印刷出版業者は、1ヶ月にミラーノ、フィレンツェ、ローマの3.5倍の出版物を刊行したのだった。

出版物は1500年代を通じて増加したが、ヴェネツィアの印刷業者は16世紀初頭より、より美しい本を刊行したのである、それは美麗な手写本の作り手と顧客を生み出す競争をしながらであった。そうした印刷業者の中で、最も著名なのが人文主義者のアルド・マヌーツィオ[Aldo Manuzio―羅典式、アルドゥス・マヌティウスAldus Pius Manutius]であった。

本土側の貴族の家庭教師であった彼は、当時大変希求されていたギリシア古典を印刷したいと1480年頃心に抱いた。しかしこの言葉(ギリシア語)で印刷されたものは何もなかったので殆ど何も知られていなかった。

マヌーツィオは本拠地にヴェネツィアを選んだのだが、そこは既に印刷の第一のセンターになっていた。文献を準備し、校閲をするための人材を集めなければならないが、そうしたギリシア人インテリ、またベッサリオン(伊式Bessarione)枢機卿がヴェネツィアに遺贈したギリシア語の手写本のコレクションが図書館にあることを考慮してのことだった。

ピエートロ・ベンボはそのコレクションの司書に任命されていたし、アルドの友人でもあり、彼を支援した。その上アルドはヴェネツィアで彼がデザインしたギリシア活字を母型から起こせる職人を見出すことが出来た。彼はその文字には、高名なギリシア人インテリの文字をモデルにして母型製作を準備したのだった。迅速と安全という海のシンボルである《イルカと錨》という、ヴェネツィアに適合したデザインを自分の出版社の紋章に選んだ。
アルド出版の「錨とイルカ」のマーク[アルド出版の有名な《イルカと錨》のマーク。エラスムスによればこのマークは《錨は仕事を始める前の熟慮を意味し、海豚は仕事を完遂する速さを意味する》のだそうです。]
マヌーツィオはラテン語やイタリア語の本に重要な改革を施した。筆写スタイルの新しいタイプの文字をデザインした。いわゆるイタリック体(italico)である。この文字は大きな頁の本では読みにくかったので、それまで使われていた本の2分の1、4分の1の判型の本の印刷が始まった。八折り判という判型は紙を八つに折り、16ページが刷れるのである。

八つ折判とイタリック体の文字の使用で、マヌーツィオは以前の八つ折判あるいはシート判という大きなサイズの本を、ポケットに入れることの出来る本として作り出した。彼の最初の八つ折判である『ウェルギリウス』を1501年に出版した。このことで本の値段が大型本に比べて約8分の1になった。そして学生層にまでマーケットが膨れたのである。ヴェネツィアはこの書体に特許を与えたが、他の場所で直ぐに模倣者が現れた。

ヴェネツィアでの編集は色々な方面に及び、多くの分野、とりわけ音楽出版に卓越していた[講談社刊『ニューグローヴ音楽事典』(全20巻)からヴェネツィアの音楽出版社名を抽出してみました。2007.10.31日に書いたLibreria Emilianaでどうぞ]。ギリシア語以外にヘブライ語本も印刷された。図版は最初は木版だったが、後に銅版に変わった。

次第に本の値段が下がり、軽い文学が比重を占めるようになり、編集センターとしてのヴェネツィアは、売れ行きのいいものを書いて暮らす者を引き付けた。

そうした作家の中で最大の人物は、ピエートロ・アレティーノだった。《宮廷の束縛から解放され、ヴェネツィアでの自由な生活を楽しんだ最初の作家》(Grendler)であり、人を刺す中傷文書を書き《王侯の鞭》として知られた恥知らずの恐喝者だった。
ピエートロ・アレティーノの肖像[ティツィアーノ画『ピエートロ・アレティーノの肖像』]  アレティーノや彼の模倣者達は、喜劇や卑猥で生き生きした対話文学を提供したし、群小作家達はあらゆる種類のマニュアルを執筆した。 ……」
   ――『ヴェネツィア史(Storia di Venezia)』(F.C.Lane 著、Franco Salvatorelli 訳、Giulio Einaudi editore 刊、1978)、P.358~360 から訳出。次回に続きます。

アラビア語の例――Alberto Toso Fei 著『I segreti del Canal grande』は次のような事を書いています。アルド・マヌーツィオの作ったポケットに入る小型本の最初は、1400年末~1500年初に発刊した『ペトラルカ詞華集』であり、ヴェネツィア印刷出版業の商業的・文化的繁栄は、サン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ修道院に今日でも保存されている、1530年に金属活字で印刷された最初の『コーラン』(パガニーニ社刊)の存在がその事を示すだろうと(誤植は多いらしいです)。

アルドの出版物は、他社の、校閲・校正に金を掛けなかった間違い・誤植だらけの本とは異なり、非常に信頼されたそうです。一般に印刷出版社は、製作費用を抑えるために出来るだけ校正・校閲等に時間と金をかけなかったということと人材も不足していたということだったでしょうか。
  1. 2011/06/18(土) 00:02:01|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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