イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: バルバリーゴ・デッラ・テッラッツァ館とカッペッロ・レイヤード・カルネッティ館

ピザーニ・モレッティ館の右隣のバルバリーゴ・デッラ・テッラッツァ館(P.Barbarigo della Terrazza)について、G.Lorenzetti 『ヴェネツィアとその入江』は次のように書いています。
「バルバリーゴ・デッラ・テッラッツァ館」と「カッペッロ・レイヤード館」「建物の2階の広い露台、特に中空状の庭のためにこう呼称される――擬古典様式の建物であり、ベルナルディーノ・コンティーンの設計により(と思われる)、1568~69年頃、ダニエーレ・バルバリーゴによって建てられた――1800年代、貴重な美術館として名を成していたが、そこに収集されていた作品は、ティツィアーノのキャンバス画を中心としていた。1850年にサンクト・ペテルブルグのエルミタージュ美術館のために、ロシア皇帝に売却された。」
[現在この2765番地には、《ドイツ研究センター(Deutsches Studienzentrum)》と《アルベルゴ・カルパッチョ》が入館しているそうです。]

右隣はサン・ポーロ運河(R.de S.Polo)で、サンタ・ルチーア鉄道駅に船で急行する時は、サンタゴスティーン(R.de S.Agostin)、サン・ジャーコモ(R.de S.Giacomo)、マリーン(R.Marin)と運河を渡って行くと近道になるのだそうです。

この運河の右隣の角には、カッペッロ・レイヤード(レイヤルド)・カルネルッティ館(P.Cappello Layard Carnelutti)があります。E.&W.Eleodori の『大運河』(1993)は次のように書いています。

「サン・ポーロ運河と大運河の合流地点の角に立つ、この1500年代の建物は、1階の長方形の窓と上の階のアーチ型の窓だけでアクセントを付けている大変簡素なファサードである。右にある三連窓の面前には柱で支えられた小さなテラスが顔を見せている。元々ファサードは、パーオロ・ヴェロネーゼとジャンバッティスタ・ゼロッティのフレスコ画で飾られていたが、現在は姿を消した。

ここにはイギリス大使ヘンリー・オーステン・レイヤード卿が住まいし、1915年の彼の死により、彼の絵画コレクションはロンドンのナショナル・ギャラリーに遺贈された。

カッペッロ家は9世紀からヴェネツィアで華開いた貴族の一家であった。有能な政治家と勇敢な軍人を輩出した。ヴェットーレは1467年ネグロポンテ島(現、エーゲ海のエヴォイア島)で喫した惨敗による悲嘆のあまり死んだ。同じ島で、パーオロ・エーリッツォがその3年後、トルコ人の手で残酷に殺された。しかしこの一家の知名度は、特に一人の女、ビアンカ(1548~87)に負うている。

彼女はモロジーニのある一族に繋がる、美しい、落ち着きのない15歳の娘であった。フィレンツェの銀行の若者とフィレンツェに駆け落ちした。フィレンツェで彼は家族達の意志に反して、1563年結婚した。ヴェネツィアではこのスキャンダルは、その事実からしても大変なものだった。いずれにしてもヴェネツィアの貴婦人は、昔のビザンティンの貴婦人のように、むしろ表立った所から一歩控えた所で監視されるように生活していたのである。

この少女には欠席裁判でセレニッシマから死が宣告されていた。しかし何年か後トスカーナ大公夫人になった、積極的で活発なビアンカは、《共和国の秘蔵っ娘()》と幸運にも宣言されることになった。

事実メーディチ家のフランチェスコ大公の注意を自分にだけ注がせることに成功したこの若い娘は、彼の恋人になっていたのである。そしてミステリアスな状況の中での実の夫の死(彼女にとって幸運であった)と、大公夫人の逝去で、1578年大公と結婚することが出来た。一般的な反目のある状況の中、大公とその弟フェルディナンドとの間に目に見える対立を引き起こしたのであったが。

この時からビアンカは自分の立場の強化のために、子供を持つことしか考えなくなった。そして何年もの不妊期間、ヒステリックに妊娠への試みを推し進め、薬で健康を害し、結果、若い身空で水腫にかかってしまった。

約10年の対立の後、メーディチの兄弟は和解し、夏に宮廷がこぞって、快適な Poggio a Caiano のヴィッラでの避暑に同行したのである。そこで10月半ば大公は病に罹り、数日後亡くなった。ビアンカも36時間後彼の墓へ、死のお供をしたのである。

当時邪魔者を殺すのによく使用された毒薬の事が話題に上った。しかし歴史的な検証は、陰鬱なロマンチックな現実遊離の栄光の陰に溶融してしまい、トスカーナの王冠を手にしたフェルディナンド2世の名誉を挽回したかに見える。

フランチェスコは遺伝的欠陥のある肉体の持ち主であり、ビアンカは不妊症を回復したいと厳しい治療を次々と試みて、健康を害したと立証したのだが。」
  ――E.&W.Eleodori『大運河』(1993)より。

私は『La bussola del viandante, ovvero Lo stradario di Venezia』vol.1,2(Piero Pazzi,Tipografia del Centro Grafico di Noale)に教えられ、ビアンカ・カッペッロの事は2008.04.11日に天正のローマ使節(4)、2008.06.27日にカランパーネ埋立て通り、2009.10.31日にヴェネツィアと日本との関係(2)と書きました。その生家はサン・ポーロ区内部のベッカリーエ運河(R.de le Becarie)の屈曲部に立つモリーン・カッペッロ館(P.Molin Cappello)でした。この E.&W.Eleodori の『大運河』(1993)は、全カッペッロ家の歴史について広い視点から書いているようです。
  1. 2011/07/02(土) 00:02:02|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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