イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの橋(1)――リアルト橋

ヴェネツィアの事ばかりに感(かま)けていますと、時に衝動的に日本の事について読んでみたくなります。特に日本的なものと思って、日本浪漫派の作家、保田與重郎の名作『日本の橋』を読んでみました。

彼については来日イタリア人文芸評論家ロマーノ・ヴルピッタ氏が、中公叢書『不敗の条件――保田與重郎と世界の思潮』(中央公論、1995年2月10日)を直接日本語で書き、刊行しています(ヴェネツィアで1972年死んだエズラ・パウンドと保田を並べて論じた章もあります。彼は京都鳴滝の身余堂に保田を訪ねて行ったようです。かつて新学社の雑誌『イロニア』に書かれた保田與重郎論は興味深いものでした)。
ロマノ・ヴルピッタ著『不敗の条件』『イロニア』『日本の橋』を読み進める内に、「……岩橋が羅馬の石造橋となり、蔦橋が近世の鐵の吊橋となるまで、架橋は羅馬人の唯一の歴史的獨占事業とさへ思はれる。……」、そしてまた「……歎きの橋と歌はれた、ヴェニスの町の幽囚者と死刑者を渡すための橋のやうに深い代々の詩人の驚異の情緒を織りこんだ橋は求める方が無理である……」(『保田與重郎全集』第四巻(講談社、昭和六十一年二月十五日))等の文章に遭遇すると、結局は『伊賀越道中雙六』の《落ちつく先は九州相良》ならぬ、イタリア・ヴェネツィアとなってしまいます。

ヴェネツィアの橋で、誰でもイの一番に挙げる橋は言わずと知れたリアルト橋でしょう、美しさの点でも古さ[総督宮殿前のパーリア橋は大運河以外の架橋で一番古く1360年の物だそうです]の点でも。またイタリアの橋の中では知名度においても、フィレンツェのポンテ・ヴェッキオと双璧をなすでしょう。E.& W.エレオドーリ著『大運河』(1993)はリアルト橋について次のように記述しています。
カナレット『サン・マルコ湾から見たサン・マルコ潟岸』[カナレット画『サン・マルコ湾のモーロ(サン・マルコ桟橋)とスキアヴォーニ湾岸』部分、のパーリア橋。その奥に溜め息の橋(保田與重郎は《歎きの橋》と書いています)が少し見えています。カナレットの時代(1700年代)、溜め息の橋はまだ世界には知られておらず、バイロンが詩に歌ってから(1800年代)その知名度が爆発的に増したようです。]

「最初、一部が船で支えられた簡単な橋であった。現在の鉄河岸(Riva del Ferro)には元々ヴェネツィア造幣所が置かれていたため、《貨幣橋》と呼ばれていた。それは1170年に作られたのであるが、伝説によれば、総督ミキエールが2本の高い円柱をオリエントから運ばせ、それを垂直に立て起こしてサン・マルコに立柱したのが、この橋の建造家バラッティエーリであったという。

マリーノ・モロジーニ総督時代、杭柱を基礎にした橋の建設が指令され、1265年に出来た。1310年バイアモンテ・ティエーポロとその仲間の陰謀が発覚し、ティエーポロ一味は逃亡したが、それを総督の兵士が追い、逃亡者によって破壊されてしまった。

続く橋はやはり木造で、フェッラーラ侯爵の結婚式の行列をもっとよく見ようと詰め掛けた群衆の重みで、1444年崩れ落ちてしまった。カルパッチョはその時代の橋を描いている。両岸に固定され、船の通行が出来るように中央部は跳ね橋になっていた。

最終的に石で架橋されたのは、第6番目の橋であった。1500年代中多くの建築家がプロジェクト案を提出した――フラ・ジョコンドからミケランジェロ、サンソヴィーノ、パッラーディオ、ヴィニョーラまで――その結果建設は、1588年アントーニオ・ダ・ポンテに委ねられた[彼に協力したのは甥 Antonio Contin だったとか]。

完成には3年[1588~91]掛かった。先端の基礎部分の強化に1万2千本の杭が打ち込まれ、25万ドゥカートの費用が掛かった。1591年に新設の、決定版の橋の落成式が行われた。両側の4ヶ所に記念碑が残されている。
カルパッチョのリアルト橋カナレットのリアルト橋の西側カナレットのリアルト橋ミケーレ・マリエスキ画『リアルト橋の眺め』
ルーカ・カルレヴァリス画『リアルト橋』ヴィゼンティーニのリアルト橋ヴィゼンティーニ『東側のリアルト橋』[上左はカルパッチョのリアルト橋(部分)、上中左はカナレットの『大運河とリアルト橋を西から見る』、上中右はカナレットの『大運河とリアルト橋を南から見る』、上右はミケーレ・マリエスキの『リアルト橋の眺め』、下左はルーカ・カルレヴァリスの『リアルト橋』、下中はアントーニオ・ヴィゼンティーニの『西側のリアルト橋』、下右はそのヴィゼンティーニの『東側のリアルト橋』(下、中右の版画は、上、中左右のカナレットの絵をヴィゼンティーニがそれぞれ板刻した物)]

橋は長さ28.7mの単一アーチ、高さは7.5mで、12のシンメトリックなアーチ形がそれぞれ両側に配置された上に、冠を被った形である。橋の中央に向いて店が開かれており、元々は銀行や金融事務所が置かれていた。そして現在は活気ある商店が並び、観光客で溢れかえっている。

リアルト橋の下の大運河右岸はワイン河岸(R.del Vin)と呼ばれるが、ここにはかつてヴェネツィアで消費されるあらゆる種類のワイン、アルコール類の倉庫が置かれていた。カルパッチョの絵の中で、飲み屋の主人が大運河に係留した船の前で、酒樽を洗っている姿を見ることが出来る。左岸は鉄河岸(R.del Ferro)と炭河岸(R.del Carbon)である。」

[完成したのは総督パスクァーレ・チコーニャ(1585~95)時代で、当時この建設案は技術的観点から見て、無謀ともいえる大胆なものと考えられ、パッラーディオの弟子だったヴィンチェンツォ・スカモッツィ等は崩れ落ちるに決まっている、と陰口を叩いたそうです。今やヴェネツィア建築のシンボルとなっています。]

一般に河川の右岸左岸は、川上から海に向かって左が左岸と呼ばれる筈です。例えばパリのセーヌ川左岸はソルボンヌのあるカルティエ・ラタン側であることは知られています。ヴェネツィアでは? ここの文章ではサン・マルコ湾に向かって右を右岸と言っています。私が屡々参照させて頂いている Daniele Resini の『Venice. The Grand Canal』は、鉄道駅に向かって右を右岸と言っています。決まりはないのでしょうか。
ジュゼッペ・ボルサート画『リアルト橋』[ジュゼッペ・ボルサート画『リアルト橋』] 今年度のヴェネツィア展でこの絵が展示されていましたので、掲載してみました(2011.11.26日)。
  1. 2011/08/13(土) 00:03:56|
  2. ヴェネツィアの橋
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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