イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――アンリ・ド・レニエ(3)

森鷗外は『即興詩人』を訳していますし、多分ゲーテの『伊太利亞紀行』は読んでいたに違いありません。とすると、ヴェネツィアに興味を抱いていたのではないでしょうか。

もしそうだとすれば、彼が仏人作家アンリ・ド・レニエの作品の独訳から『復讐』を日本語訳していることに合点がいきます。この作品はヴェネツィア人のお話なのです。ヴェネツィア好きだったレニエはヴェネツィアを舞台にした作品を幾つか書いています。2009.05.23/30日の文学に表れたヴェネツィア―アンリ・ド・レニエに彼の詩のことを書きました。

「……こんな風に己達の青春は過ぎた。ヱネチアの少女等は戀愛でこれに味を附けて過させてくれた。波の上をすべるゴンドラの舟が、ひまな己達の體をゆすつてくれた。歌の聲や笑聲が、柔かい烈しさで己達のひまな時間を慰めてくれた。その時の反響がまだ己の耳の底に殘つてゐる。

こんな樂しかつた日の記念の數々は、運河のうねりの數々よりも多く、その記念のかゞやきは、運河の水の光より強い。今から思つて見ても、あの生活を永遠に繼続することが出來たなら、己は別に何物をも求めようとはしなかつただらう。あの生活をどう變更しようと云ふ欲望は、己には無かつただらう。只目の前にゐる美しい女の微笑(ほほゑみ)が折々變つて、その脣が己に新なる刺戟を與へてくれさへしたら、己はそれに滿足してゐただらう。

倂しバルタザルはさうは思はなかつた。己の胸はあれが館の窓々が鎖されて、只白壁の上に淡紅色の大理石の花ばかりが開くやうに見えてゐた時、どんなにか血を流しただらう。バルタザルは遠い旅に立つた。世間を見ようと思つたのである。あれは三年の間遠い所にゐた。そして去る時飄然として去つたやうに、或る日、又飄然として歸つて來た。

朝が來れば、あれの聲が石階の上から又己を呼ぶ。晩にはあれと己とがまた博奕の卓を圍む。己達は又昔の通りの生活を始めた。そのうち或る日不思議な出來事があつて、あれを永遠に復()た起()つことの出來ないやうにしてしまつた。それからと云ふものは、あれはサン・ステフアノの寺の石疊みの下に眠つてゐる。兩手を創口(きずぐち)の上に組み合せて眠つてゐる。 ……」
 ――『鷗外全集 第十一巻』(岩波書店、昭和四十七年九月二十二日)―アンリ・ド・レニエ作『復讐』より
ダーリオ館裏のレニエのプレートスクリストーフォロ橋左、大運河に面したダーリオ館裏のバルバロ小広場(Cpl.Barbaro)壁面にこのプレートが掲げてあります。《ダーリオ家のこの古い館でフランスの詩人アンリ・ド・レニエが、1899年と1901年ヴェネツィア風に生活し且つ著述した。1948年ヴェネツィア市》。右、ダーリオ館裏のバルバロ小広場のサン・スクリストーフォロ橋(P.S.Cristoforo)と右壁面のレニエの碑。写真直ぐ左脇のサン・クリストーフォロ橋の90度にカーブした石の欄干を少年が滑り降りてきて、キャサリン・ヘップバーンに出会うシーンが映画『旅情』の中にありました。
  1. 2011/08/27(土) 00:05:56|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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