イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: ドナ館(P.Dona`)(2) 、 あるいはドナート館

2011.09.03日の《ドナ・デッラ・マドンネッタ館とドナ館》(1)の続き。
「その後カミッロ・ボルゲーゼはパウルス五世(1605~21)の名前で教皇庁の玉座に登り詰め、ラグーナ政府の世俗の絶対的な独立をへし折る準備を始めた。当然ヴェネツィアは丁重に構え、教会の掟から逃れるべく動いた。

一つのヴェネツィアの法律が教皇を特に苛つかせた。それは、宗教上の不動産の譲渡はどのような形にせよ禁ずるというものだった。ヴェネツィアでは教会の所有権のいかなる拡大も阻止されることになった。それだけでなく、大評議会の認可なくして教会の建設もままならなかった。

到頭、衝突の機会が訪れた。2人のヴェネツィアの僧侶が犯罪を犯していた――その一人マルカントーニオ・ブランドリーンは、数人の人間を殺めていたのである――セレニッシマは彼の起訴の準備を始めた。教皇庁は宗教者を裁く権利は教皇座のものであると主張して介入してきた。ヴェネツィアが譲れば、ヴェネツィアはその独立と主権を放棄したことになるだろう。

一方教皇が目的達成のために、ヴェネツィアを出口なしの迷路に追いやる筌蹄を画策しているのは明白だった。それ故ヴェネツィアは、2人の犯罪人の引き渡しと教会との関係に有害と思われる法律の廃止を求めた最後通牒に応じるべく、教皇庁宮廷の権謀術数を熟知した、最有能な外交官を派遣することを決めた。それがレオナルド・ドナだった。
レオナルド・ドナ[レオナルド・ドナの肖像(イタリア・ウィキペディアから借用)]  しかしローマへの旅支度の最中、総督マリーノ・グリマーニが亡くなり、直後の選挙でレオナルド・ドナは総督に選出され、共和国と教皇座との激しい確執という重い遺産を背負うことになった。こうして突如、特異の性格を備えた2人の旧敵同士が、新しい高い権力の座で睨み合うことになった。

ローマから放たれた破門は、海上の一滴の油のようにヴェネツィアの頭上を過ぎったが、それは突然イエズス会士の頭上に跳ね返り、教皇を驚かせた。

当初パウルス五世の全ての要求は、以前のように断固として撥ね付けられた。そして今や総督は破門と聖務停止を拒否していた。それだけではなく、その通達の掲示を禁じ、宗教者には通達の事は忘れて、通常の宗教活動に精励するように命じた。蠟燭の火は絶やしてはならなかったし、教会の門は閉め切ってはならなかった。いつものように結婚式、誕生会、葬式、祝い事は続けられた。

それは厳命だった――政庁の頑とした態度を知って――誰も無視出来なかった。しかしイエズス会士は命令を拒否したので直ぐ様ヴェネツィアの領域から追放された。そのニュースは大反響を巻き起こし、更に拡大していく気配だった。

このニュースに各国が一息ついた時、スペインは教皇に軍隊の提供を申し出、イギリスはヴェネツィアを強く支持し、一つの教会そのもの(una Chiesa propria)になるように勧めた。一方トルコのスルタンもまたローマに対立するヴェネツィアと闘うことを提唱した。

その間ヴェネツィアは動ぜず、兵士を徴用していた。その時フランスは心配して、この騒動の鎮静化のために2人の敵対者と接触すべく、最優秀の交渉団を派遣した。微に入り細を穿つ外交交渉の結果、両者が《メンツを保つ》のに成功した。

フランス王は個人的な好意でセレニッシマに例の2人の犯罪人を自分に引き渡すように求めた。ヴェネツィアはその後教皇座に対して敬意を表明したのである。

こうしてヴェネツィアは教皇のいかなる命令にも譲ることなく、2人の困った厄介者から巧みに手を切り、援助や助言を申し出てくれた国々の気分を害することなく、フランス人の気に入るようにしたのである。

教皇は2人の宗教者への要求については、外観上は勝利したのだという体裁を認めるしかなかった。本当の所はあらゆる面で敗北したのだが耐えるしかなかったのである。

その上パウルス5世は憤怒を正当化した筈の方策、無意味な破門と聖務停止措置を嫌々ながら取り下げねばならなかった。

レオナルド・ドナは取消措置を見て、大評議会の前で冷静に次のように宣言した。《いずれにしてもヴェネツィアは、教皇の聖務停止など問題にしなかった。それ故同じような事で、停止措置のためにヴェネツィアが一喜一憂することなど何もない》と。元老院は了承した。」
 ――E.&W.エレオドーリ『大運河』(1993)より
  1. 2011/09/10(土) 00:03:01|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
  3. | コメント:2
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コメント

こんばんは! レオナルド・ドナの教皇庁とのやり取り、大変に興味深く読ませて頂きました。 有難うございます! 
政治への教皇の介入を撥ね退ける、とは言葉では簡単ですが、実際に行うとなると、政治的外交的配慮が必要で、断固として立ち向かう総督の意気がうかがえ、深慮の程もさることながら、爽快です。 

下のカルパッチョの例の絵について、先日ちょっとお邪魔した時に、上下を繋げた形で拝見でき、こちらも大変有難うございました! 何度も読みながら、まだ繋がった全体を見た事が無かったのです。 
東京でのヴェネツィア展で何かまた発見がありましたら、ご教授願います。
  1. 2011/09/11(日) 21:23:16 |
  2. URL |
  3. shinkai #-
  4. [ 編集 ]

shinkai さん、コメント有り難うございます。
『ヴェネツィア展』は今月の秋分の日、23日から始まります。非常に期待しております。
私が初めてヴェネツィアのアパートを借りたのは大聖年の2月でしたが、延長されたグラッシ館での『カルパッチョ展』は1月に終わっていました。新聞の切り抜きだけは手に入れました。
『ヴェネツィア展』に合わせて訳してみようと二度に渡って大捜索をしましたが見付かりませんでした。偶々カルパッチョの画集を覗いたらそこに挟まっていました。改めて読み直してみますと大変興味深いです。
パリのギュスターヴ・モロー美術館の3階正面に、彼が正確に模写したサン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ同信会館のカルパッチョの聖ゲオルギウスが掲げてありました。その事だけでも彼の素晴らしさが知れます。
それにしても、コッレールの遺贈品を最初に評価した人のこの絵の値が、12リラだったとは!
  1. 2011/09/12(月) 03:21:02 |
  2. URL |
  3. pescecrudo #/plE8HKU
  4. [ 編集 ]

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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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