イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: ジュスティニアーン・ブズィネッロ館からリアルト橋まで

コッチーナ・ティエーポロ・パパドーポリ館右隣の、ブズィネッロ館(P.Businello)について、E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のように述べています。
ブジネッロ館とバルズィッザ館「13世紀中頃のヴェーネト・ビザンティン様式の商館だったが、14世紀以後、何度も手が加えられ、1600年代4階を増築した時は、特に改築が激しかった。水面直ぐ上のポルティコの玄関は建設当初の物で、この入口用の大門の中央開口部以外[両サイド]は壁として塗り込められてしまった。上の階には多連窓がある。」

Alberto Toso Fei 著『大運河の秘密(I Segreti del Canal Grande)』(Studio LT2、2010年)によりますと、この館には、観客を魅了して舞踊の女王と称えられた有名なバッレリーナ、マリーア・タッリオーニが、オーストリア支配時代居住しており、ロンバルディーア・ヴェーネトの支配者であったオーストリアの陸軍元帥、85歳のヤン・ヨーゼフ・ラデツキーを客人として招いたりしたそうです。

彼女については、カ・ドーロ(Ca' d'Oro)に纏わる有名な話があります。ロシアのアレクサンドル・トルベツコイ公は彼女と知己の関係で、彼は1846年このカ・ドーロを彼女に進呈しようと、ジョヴァン・バッティスタ・メドゥーナに館が目立つような修復を依頼しました。

メドゥーナは全てを改造しようと、バルトロメーオ・ボンの有名な井戸の井桁は売却、ヴェルティの中庭の外階段は撤去、その他大理石や貴重な柱頭は剥ぎ取ってしまいました。イギリスの美術評論家ジョン・ラスキンは大変残念がったそうです。
カ・ドーロ館中庭の井戸現在のカ・ドーロ館中庭の井桁――ジョルジョ・フランケッティ男爵がこの館を手に入れた時、全てを元のままに修復したいと奮闘した歴史は、最近日本のTVでも放映されました。

ブジネッロ館の右館は飛ばして次のバルズィッザ館(P.Barzizza)に移りますと、『大運河』(1993)は次のように記しています。

「屋根裏部屋と、右前部にテラスが張り出したこの建物はゴシック期に手を加えられたヴェーネト・ビザンティン様式の貴重な残存要素が見られる。美しい入口の大門と、2階3階のアーチの多連窓は13世紀に遡ることが出来、突き出ている露台のある一面窓(monofora)は14世紀のものである。ファサードには一家の紋章が付けられている。バルズィッザ家はベルガモ出身の伯爵だが、1694年お金により貴族と認められた時、他家からこの邸宅を手に入れた。」

バルズィッザ館といえば、私にはかつてイタリアの事務機メーカー、オリヴェッティ社のCM誌《SPAZIO》(1990年)に掲載された《対談“どこをとってもヴェネツィアは絵になります”――帰国された別府貫一郎画伯にきく》という、別府貫一郎画伯と聞き手の陣内秀信先生との対談を読んだ記憶があります。

対談中、
陣内  僕は先生が前に住んでられたところから引っ越されて、お手紙下さったときに、その住所を見て、びっくりしちゃったのですよ、コルテ・バルツィッツァと書いてあるんですから。ヴェネツィアの13世紀頃の建物というのは本当に十戸もないのですが、その中でも一番古い建物なんです。一等地ですよ、貴族の住宅で。あれは四階建てですね。……」
……
陣内 ……それから、いかの塩辛とか、かぶの酢漬け、糠味噌まで本当に器用にお作りになった。それを、よく先生のお部屋に一緒にお邪魔した小林惺先生や浜田信次さんや僕がペロッといただいちゃったりして(笑)。僕、糠味噌のお守りしましたよ(笑)。」
という一節を改めて読み直してみると、日伊協会で伊語を教わった故小林惺先生の事が思い出されます。

当時この対談を読んでから後、小林先生と生徒の食事会の時、尋ねてみました。先生は、自分もこの対談に出席することになっていたけれど、直前になって外せない急用が生じ、全て陣内先生に任せました、とのことでした。

バルズィッザ館から右へ何軒か先に、赤色のラヴァ館(P.Rava')があります。G.Lorenzetti『ヴェネツィアと入江』(1926)は次のように書いています。
ラヴァ館「ヴェネツィア・ゴシック様式の近代的建物(ジョヴァンニ・サルディの1906年の建設)。サン・シルヴェストロ教会に近いこの広い敷地は、元々グラードの総大司教の在所があり、それがサン・ピエートロ・ディ・カステッロに越すまで、1156年~1451年の間、司教の住居があった。」
ビゾニーニ館これ以後、ワイン河岸(Riva del Vin)に沿って、リアルト橋まで飛び飛びに行きます。数軒先の3階建ての白い低い建物は写真には Bisognini と記されていますが、かつてはサン・ポーロ区の穀物倉庫だった所で、1840~44年に建て替えられたそうです。そこから5軒目の写真に Casa Franca と記された建物は、バルバリーゴ館(P.Barbarigo)とも呼ばれ、現在はホテル・マルコーニとなっています。左側に二連窓のあるこの建物は1500年代に建て直されたそうですが、1800年代、1900年代初めと全体が改築されたそうです。
ホテル・マルコーニと十人長老会館リアルト橋の袂に建つ Palazzo dei Dieci Savi(十人長老会館)について、E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のように述べています。

「この建物には、収税吏の役所あるいは十分の一税に対する十人長老会が入っており、1514年の大火で灰燼に帰した後、アントーニオ・アッボンディ・ロ・スカルパニーノが1520~22年に再建した直ぐ傍の旧役所のように、それら再建建物群の一つである。リアルト橋の袂で大運河に面して開かれているのは左側だけであるが、建物は奥へヴェッキア通り(Ruga Vecchia)まで長く延びている。

建物の気品といったことより純粋に機能本位で、1階回廊の広いアーチの上に、2階3階では対になった四角形の単純な窓が連続している。現在は市の水利行政局が入っている。」
  1. 2011/10/15(土) 00:01:46|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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