イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

マルゲリータ・サルファッティ――ドゥーチェの恋人(2)

(続き)
「1915年ムッソリーニが第一次世界大戦の時、社会党の路線に反しイタリアの参戦を主張して、党と『アヴァンティ』紙の方向と決別した時、彼女は彼の新しい新聞に従った。『イタリア人民』は僅かな期間であったが、トリーノの『スタンパ』や『ヒエラルキー』のような新聞や雑誌と協力した。『ヒエラルキー』については引き続いて1922年その経営を引き継いだ。

イタリアの参戦を擁護するために、ムッソリーニの傍にいること、そうした政治的位置にいることの代償は大変高価なものに付いた。長男のロベルトは一家の参戦の雰囲気に巻き込まれ、志願兵として入隊し、僅か18歳で1918年1月28日バルド山の戦いで戦死した。

しかしマルゲリータ・サルファッティの名声は、ドゥーチェの女であり、『Dux』と題された、彼の順風満帆の伝記を1925年に書いたということにあるのではなく(その伝記は17刷の増刷があった上に18ヶ国で翻訳された)、特に美術批評活動や視覚芸術の分野での重要な文化的イヴェントの企画・遂行者だったことが偉大であったのである。

第一次大戦初期からヴェネツィア大通りの彼女の家は、インテリの友人達が押し掛けた、即ちマッシモ・ボンテンペッリやアーダ・ネーグリのような作家、彫刻家メダルド・ロッソやアルトゥーロ・マルティーニのような芸術家、マーリオ・シローニやアキッレ・フーニのような画家達で、彼女はフーニについて鋭い論文を書いた。

時にベニート・ムッソリーニもやって来ることがあった。未来派の友人でもあるマリネッティやウンベルト・ボッチョーニ、ルイージ・ルッソロもやって来た。特に戦後20年代は、マルゲリータ・サルファッティの活動は家の居心地のいいサロンから、画廊や公共機関に移った。

1923年3月26日、画廊経営者でユダヤ系のリーノ・ペーザロと《1900年代の7人の画家》と題した大美術展を企画した。アンセルモ・ブッチ、レオナルド・ドゥドレヴィッレ、アキッレ・フーニ、ジャンルイージ・マレルバ、ピエートロ・マルッシグ、チプリアーノ・オッポ、マーリオ・シローニの作品が展示された。それは大イヴェントであり、同じ画廊で翌年も作品が並べられた。

こうして《ノヴェチェント》派が誕生し、同じ年1924年のヴェネツィア・ビエンナーレで公式に認知された。彼女の意図では、これはファシスタ芸術であるかも知れなかったが、ムッソリーニがその点に関して少々懐疑的であるように思われた。しかし全ての歴史家の認識は、この芸術は中身的にはファシスタの宣伝に歩調を合わせるものではない、ということである。
ノヴェチェント[この本でノヴェチェントを知りました] それはマルゲリータの知的で自覚的意志のためであった。しかしながらこうした政治的色付けは離反を招いた。1926年の常設展覧会で彼女の活動は大成功を収め、最初の7人の芸術家の内、フーニ、マルッシグ、シローニだけが残ったが、デ・キーリコからカゾラーティ、グイーディからモランティやセヴェリーニ、更には未来派のバッラやデペーロ、プランポリーニ等が参加した。

そうした中、マルゲリータは建築の歴史に興味を抱いていた。彼女は1925年のパリ工芸博覧会でイタリアのパビリオンを設計した建築家アルマンド・ブルジーニを援助した。しかしそれは手作りの《l'accozzaglia stilistica(様式的寄せ集め)》と称された展覧会を確認し、ル・コルビュジエの《新しい精神(spirito nuovo)》を迎え入れてのことだった。

[スイス生まれの建築家ル・コルビュジエ(本名シャルル・エドアール・ジャンヌレ)が設計した、L'esprit nouveau(新精神)館と名付けられた2階建ての住宅がこのパリ工芸博で展示され、広々とした部屋には最少限の家具だけが置かれ、室内装飾として用いられたものには酒場のワイン・グラス、実験用フラスコ、貝殻、工業用備品、民芸風の敷物、壁掛け等であったそうです。]

2年後、モンツァでの第3回目の展覧会でイタリア建築に生じた決定的な方向転換を確認することが出来た。

1921年ムッソリーニはローマへ引っ越し、最初はラセッラ通りのアパート、次いで1928年にはヴィッラ・トルローニアに移った。その時マルゲリータ(彼女の夫は1924年死亡していた)は娘のフィアンメッタとローマへ、そのヴィッラから程遠からぬ所へ移り住んだ。
マーリオ・ソクラーテ『マルゲリータ・サルファッティと娘フィアンメッタの肖像』しかしドゥーチェは彼女に飽いてしまっていた。ファシズモの状況が変化しただけでなく、新しい登場人物が線上に現れていた。ムッソリーニは人々の訴えに益々神経質になり、直ぐ様要求に応え、特に弟のアルノルドの死後は穏健な慈善活動に励んだ。

1938年はユダヤ人迫害を始めた年である。マルゲリータは最初パリに避難し、後で息子のアメデーオもパリに到着し、彼はウルグアイにラッファエーレ・マッティオーリの手で送られた。マッティオーリは彼女の息子を迫害から守るべく手助けした商業銀行の頭取であった。

1942年イタリアに帰国した。そして『Acqua passata(過ぎ去った洪水)』を書いた。1961年10月30日ヴィッラ《Saldo》館で亡くなったが、既に忘れ去られた人であった。」
  ――ブルーノ・ ロザーダ『ヴェネツィア女達(Donne veneziane)―Amori e valori』(Corbo e Fiore Editori、2005.10)より
  1. 2011/10/29(土) 00:01:07|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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