イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: Il Casin degli Spiriti di palazzo Contarini Dal Zaffo(コンタリーニ・ダル・ザッフォ館)(1)

ヴェネツィア本島の北、サン・ミケーレ島が望める海岸通りは、ヌオーヴェ海岸通り(Fondamente Nove)ですが、この通りを右手にサン・ミケーレ島を眺めながらどこまでも行きますと、その先はミゼリコルディア湾(Sacca de la Misericordia)に突き当たります。
キオード橋(左図最下部中央部)近辺地図その突端から前方右手を望むとラグーナに小さな館が突き出しており、その建物は Casin degli Spiriti と呼ばれています。『Calli, Campielli e Canali』(Edizione Helvetia, 1989)の説明は次のようになっています。

「コンタリーニ・ダル・ザッフォ館。1500年代後期の建築で貴族の邸宅だったが、素晴らしい庭があり、そこに隣接して《才気煥発の館(Casin degli Spiriti)》があり、そこの集まりで文学談義がなされたことでヴェネツィアでは有名である。1500年代の最も優秀な知性と才能の持ち主が集まったのである。」
Marcello Brusegan『ヴェネツィアの神話と伝説』Marcello Brusegan『Miti e leggende di Venezia(ヴェネツィアの神話と伝説)』(Newton Compton Editori, 2007.10)は次のような事を書いています。

「1500年代初頭サン・ミケーレ島とムラーノ島の直前の、ミゼリコルディア湾として知られるカンナレージョのこの地区では、文学者、芸術家、その他にもインテリ達のグループがコンタリーニ家からこの小さな建物を自分達のクラブ用に賃借りしていた。それは大きな邸宅の庭の片隅にあり、持ち主達は通常は息抜きや気晴らしのために使用していた。

賃貸借していた者の中には、偉大なるティツィアーノやジョルジョーネ、ヤーコポ・サンソヴィーノらがいる。その他にも放埒な文学者のピエートロ・アレティーノもいて、色々な芸術家の中でも、とりわけ気儘であった。

結局、多くの文化人、大芸術家、強い性格の人々であったが、高尚な会話でお互いを切磋琢磨するというよりは、肉体的快楽に沈湎していた。こうしてどんちゃん騒ぎのために集まる度に、大いに飲み、且つ喰らい、恋愛遊戯に走り、賭博に耽った。

このコンタリーニの集いに最もよく通った者の一人がジョルジョーネで、彼はチェチーリアとかいう、ある特別の女に、自分の絵画に対する思い以上に入れ込んでいた。彼女について良く言う人も悪く言う人もいた。彼が彼女に役立ってくれている時は優しかったが、そうでない大半の時はつれなく、身勝手で虚栄心が強く、しかし途轍もなく蠱惑的で瞬時にして男の心を鷲摑みした。
ジョルジョーネ『Tempesta(嵐)』アッカデーミア美術館……ジョルジョーネの事は皆によく知られていた。彼は bevaron[ヴェネツィア語で媚薬の意]を盛られていた、即ち愛の妙薬[filtro d'amore―ドニゼッティにこの題名のオペラがあります]を。彼は四六時中彼女に媚び入り、彼女の言動に動揺し、彼女の言い分は常に認め、恋文を送り、ロマンチックな絵を描いてやり、自分の絵の中で彼女をマドンナの姿で描いた。

彼はそれ程までに彼女に恋い焦がれていたので、この美しいチェチーリアの悪巧みには気付かなかった。彼女は時に彼を裏切り、浮気をするなど意にも止めなかった。彼女は言った。《全くのところ友達内ではこんな事はあり得るものよ。余りのスキャンダルにならない程度にね》。しかし、彼には言う必要があった。2人は本当のところ愛し合っていたし、そのアヴァンチュールの後は、愛するジョルジョーネの胸の内に戻ったのだ、はっきりした教訓を得るという危険を冒してのことではあったが。

この小館によく訪れる者の中に絵筆を握る芸術家ピエートロ・ルッツォもいた。彼はフェルトレの出身で、骨格の逞しい姿をいつも憔悴した様子の青白い色使いで描いたため、憂鬱で暗澹たるキャラクターの画家として、モルト・ダ・フェルトレ(Morto da Feltre―フェルトレの死者)と呼称されていた。

《死人》ではあったかも知れないが、彼の血がチェチーリアを見る度に燃え滾ったのは確かである。この彼の情熱にミステリーはない。しかしチェチーリアは彼を鼻であしらった。全くこの痩せてひょろ高い男は好きにはなれなかったし、魅力のかけらもなかった。

その上この呪われた男はよく飲んだ。飲み過ぎた。このコンタリーニの館には人の気を滅入らせるようなことは何もなかったが、彼が取り憑かれたように一気に飲み干したのは確かだった。酔うと攻撃的で暴力的になり、近寄れない人間になった。このためチェチーリアは彼が自由に話させるような状況には決してしなかったし、軽蔑しているので彼の言い寄りはきっぱり撥ね付けた。」 (2)に続く
  1. 2011/11/05(土) 00:01:40|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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