イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: ドルフィーン・マニーン館(1)

リアルト橋からサン・マルコ湾に向かう、いわゆる右岸(de Citra)は、ボンバゼーリ通り(Ramo dei Bombaseri)から始まる赤い建物、そしてチェルヴァ通り(R.della Cerva)、それに続く鉄河岸(R.del Ferro)沿いの3軒の建物、マッツィーニ大通り(Calle larga Mazzini)までのこれらの4軒の建物は内部が繋がっていて、全てホテル・リアルトになっています。
赤い建物を中心に5軒分がホテル・リアルトです。ホテル入口前の多少広い空間は、ペスケリーア・サン・バルトロメーオ(Pescaria S.Bartolomeo)と呼ばれ、かつては魚屋さんが屋台を並べていたのでしょうか?

マッツィーニ大通り右の白い建物はドルフィーン・マニーン館で、R.ルッソ著『ヴェネツィアの建物』(1998)は次のような事を記しています。
真ん中の白い建物がドルフィーン・マニーン館「ドルフィーン家は泳ぎの才能が抜群のために dolfin(ヴェネツィア語)=delfino(伊語―海豚)と渾名されたに違いないグラデニーゴ家の想像上の人物にその姓は由来するとされている。ドルフィーン家は434年のアクイレーイアの司教、1人の総督、5人の枢機卿、数多くの共和国高官がいたという。

この一家の歴史で面白くない点は、“アッチェージ”団のようなサン・サルバドールのある有名なコンパニーア・デッラ・カルザの後援団体に繋がっていたことである。コンパニーア・デッラ・カルザは色々なパーティ、悪ふざけ、演劇的催し物等で楽しんだ貴族の若者達の結社であった。彼らとその従者達は、どんな compagnia(団、結社)に属しているかを示す、色とりどりの靴下を履いていた。

1565年にはアンドレーア・パッラーディオが、ドルフィーン館の中庭に木造の劇場の建設を任された。フランチェスコ・サンソヴィーノは《称賛に値する華麗な様式の柱が立ち並んでいた》と言っている。

館は1538~74年に、ヤーコポ・サンソヴィーノによってジョヴァンニ・ドルフィーンのために建てられた。1602年までドルフィーン家の所有であったが、その年一家の血が絶え、邸宅は相続人に分割された。

1789年ロドヴィーコ・マニーンはセレニッシマ共和国の最後の総督で、この館を手に入れ、建物を最新にしようとジャン・アントーニオ・セルヴァ[フェニーチェ劇場建設者]に委ね、工事が始まった。

ロドヴィーコ・マニーンの総督辞職は、総督職の長い伝統の終焉を告げるものとなった。このため彼はしばしば名誉を傷つけられた。
……
辞職した後、ロドヴィーコ・マニーンは最初、グリマーニ家に、その後サン・スターエのペーザロ家に仮寓した。1801年最終的に我が家へ帰館し、その直後亡くなった。
[マニーン館は、彼の帰館前はフランス軍に接収でもされていたのでしょうか?]

彼の遺産相続人達は、1867年までこのサン・サルバドール地区に居住した。その後建物の所有が王立ナツィオナーレ銀行に移り、次いでイタリア銀行の所在地となった。」
  1. 2011/12/03(土) 00:03:16|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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