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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: ドルフィーン・マニーン館Dolfin Manin(2)

E.&W. エレオドーリ著『大運河』(1993)はマニーン家について次のように述べています。

「……大変富裕だったマニーン家はフリウーリ出身で、そこに所有地を持ち、声望があった。14世紀イングランドのエドワード3世によって貴族に叙されたが、1651年“お金”でヴェネツィア貴族の仲間入りをした時は、丁度カンディア[クレタ島]の悲惨な戦争の最中のことであった。

1789年のルドヴィーコの総督選出は、彼の政治的手腕というよりはむしろ彼の途方もない富のお陰であった(彼には3万ドゥカート以上の不労所得があった)。

その日ピエートロ・グラデニーゴは、怒りと悲しみを露わにして元老院で叫んだのである。《皆さんはフルラーン人(Furlan―フリウーリ人)を総督に選んだのだ。共和国は死んだ!》 そしてそれは正しかった。ルドヴィーコ・マニーンは穏和で、優柔不断、その上病気がちの人物だった。彼の名刺にはサン・マルコの雄々しいライオンの気配がなく、樫の木陰で、裸身で眠るアドニスだった。

1797年5月12日の劇的な状況は、ナポレオンの最後通牒を峻拒する昔気質のエネルギーと勇気を要求されたはずであるが、元老院に殆ど泣かんばかりに服従を受け入れるよう説得したのが、当のマニーンだった。

イッポーリト・ニエーヴォはその著『あるイタリア人の告白(Le confessioni di un italiano)』の中で、その事について書いた。《その悲しみの沈黙の中で、総督は自分がその代表者である大議会の前で青ざめ震えながら立ち上がった。そして敢えて、先人にその例のない、怯懦の態度を見せたのである。》
イッポーリト・ニエーヴォ著『あるイタリア人の告白』[イッポーリト・ニエーヴォ著『あるイタリア人の告白』] ……今やフランス軍はそこまで迫っており、政府は大急ぎで降伏に同意した方が良いのではないかと元老院を説得した。マニーンは総督の印の名誉の衣装を脱ぎ、白い帽子[総督帽acidario=corno dogale]を脱ぐとそれを従者に与えて言った。《これは私にはもはや無用だ。今夜我々が自分のベッドで寝るのは安全ではない。》

人民は元老院の決定には断固として反対した。4日後ナポレオン軍が解放軍というラベルをぶら下げてラグーナに侵入し、ヴェネツィアを占領し、その富を略奪した。
[ナポレオン本人をはじめ、ナポレオン軍の略奪は凄まじかったようです。今でも彼を悪しざまに言うヴェネツィア人は沢山います。例えば、ヴェロネーゼの『カナの婚礼』はルーヴル第一の大作ですが、ナポレオン略奪後未だに変換されていません。]

ルドヴィーコ・マニーンは、侮蔑と中傷にさらされた惨めな5年間の隔離生活の後、1802年に亡くなった。彼の遺灰はサンタ・マリーア・デッリ・スカルツィ教会小礼拝堂に埋葬されている。墓石には単純で簡素な文言だけである。“Cineres Manini”と。

マニーンはエリザベッタ・グリマーニと結婚していた。彼女は総督宮殿に住むことは拒否した。それに関して彼女は、ある友人に手紙を書いている。《大喜びの中で、総督の奥方であるということが、私に引き起こしている苦々しさに耐えなければなりません。その奥方は、女の奇妙奇天烈なところですが、総督夫人であるということを意地悪い目で見ているのです。
……
その彼女はどんな催し事にも参加したくないのです。ある人はムラーノ島で言っていましたし、また他の人はその彼女[自分]のエージェントの家で言っていました、彼女は表に出ようとせず、隠れ潜んでいたと。……》

この二つのマニーン[ルドヴィーコ・マニーン(120代総督)とダニエーレ・マニーン(1848年臨時政府総督)]という名前の間には、皮肉にもある絆があった。ルドヴィーコ・マニーンの血縁ではない、もう一つのダニエーレ・マニーンが、ある意味でマニーン家の名誉挽回をしたのである。というのは、庶民の間に沢山の貴族の名前を何世紀にも渡って見付けることが出来るからである[庶民達は貴族の名前を貰っていた]。即ちそれは、譬え宗教が違って[ユダヤ教]も、洗礼を受けて改宗する子供達に、貴族[マニーン]が自分の名前を与えるという風習があったのである。……

貴族は“聖ヨハネの名付け親”になって、自分の名前で保護と援助を与えた。ルドヴィーコの兄弟はユダヤ教徒(Medina―ダニエーレの祖父)の名付け親であった。Medina は慣習に従い、マニーンの名前を手に入れた。

[ダニエーレ・マニーンの両親は、Pietro と Anna Maria Bellotto という名でしたが、祖父は Samuele Medina という名のヴェローナのユダヤ人で、妻 Allegra Moravia と1759年4月、改宗してキリスト教徒となった時、マニーンの名を貰ったということです。ダニエーレは祖父の名を継いだのです。  

また作家 Itaro Svevo(イータロ・ズヴェーヴォ『トリエステの謝肉祭』(堤康徳訳、白水社)) の母も Allegra Moravia と言うそうですし、作家アルベルト・モラヴィアの父 Carlo Pincherle Moravia もヴェネツィア生まれの建築家で、父方の祖父は Moravia 姓のコネリアーノ出身のユダヤ人でした。Moravia(モラーヴィア)姓はこの地方のユダヤ人の名前のようです。]

そしてダニエーレ(1804~57)の銅像はマニーン広場に立てられた。日常の話題の中でしばしばヴェネツィアの栄光が思い起こされるが、1848年3月22日のその日、全てのヴェネツィア人が雄叫びを上げた。“共和国万歳! 自由万歳! サン・マルコ万歳!”」
ダニエーレ・マニーン像マニーンの住んだ家[マニーンの像と彼の住んだ家]  マニーン広場に立つマニーンの銅像は、彼の目線の先、サン・ルーカ運河(R. de S. Luca)の向こうのヴェネツィアで生活した我が家を見下ろしています。ユダヤ人を扱った伊文学者の本にここを生家としているものがありますが、プレートに IN QUESTA CASA ABITAVA DANIELE MANIN…… とあるようにこれはマニーンが生活をした建物で、生家はここではなく、サンタゴスティーン(S. Agostin)広場直ぐ傍のアストーリ通り(Rm. Astori)のどん詰まりに次のようにあります。
ダニエーレ・マニーンの生家ダニエーレ・マニーンについては2007.11.22日Daniele Manin(1804-57)をご参照下さい。
  1. 2011/12/10(土) 00:05:47|
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ペッシェクルード(oppure Puntapietra)

Author:ペッシェクルード(oppure Puntapietra)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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